幼稚園
娘は菜美と名付けられ、これといった大きな病気や怪我もせず、順調に育っていた。
二歳になる頃には弟の龍介も生まれ、家族は四人になった。
この頃は、どこに行くにも家族四人、皆一緒だった。
札幌近郊の野山は、よく遊びに行ったものだった。それも妻が作ったお弁当を持って。
確かに金はなかったが、本当に楽しかった。
そして、幼稚園の入園式があり、その帰りにいつもの八百屋に寄った時だった。
八百屋のおやじさんは私達を見ると、すぐに声を掛けてきた。
「お、今日から幼稚園かい。そりゃあおめでとう。
今日は安くしとくよ! なにがいい? イチゴかい?」
と相変わらずの笑顔を振りまきながら園児服を着た娘を見た時だった。
急に顔が怪訝そうになった。
「あれ? あれーーーッ?
おまえ・・・ 女だったのか?
おれはてっきり男だと思ってたぞ!」
どうやら八百屋のおやじさんは、今まで娘を完全に男の子だと思っていたらしい。
それが、スカートをはいた娘を見て、初めて女の子だと分かったようだ。
それもそうだ。娘が外に出る時は、いつもズボンをはいていたし、活発に走り回っていたから、男の子だと思われていたのも不思議なことではなかった。
そう言えば、六月の父親参観日のことだった。
この日は、朝から私はそわそわと落ち着かないでいた。
幼稚園に私一人で行くという心細さもあったのだが、それ以上に帰りは娘と二人だけで帰ってこれるという初めての経験があったからだ。
実は、私には前々から娘と二人だけでやってみたいことがあった。
それは、私の子供の頃の記憶にあった。
私が子供の頃、入学式や卒業式などの節目節目には、いつも母親に連れられ、二人だけで寿司屋の暖簾をくぐっていた。
そして、カウンター席に座り、目の前にある寿司ネタを見ながら、好きなものを握ってもらっていた。
自分の口に入りきらないほどの大きな太巻き。
今では滅多に見ることのできない大ぶりなボタンエビ。
わさびがききすぎて、涙が止まらなかったことなど。
その記憶が今でも鮮明に残っている。
そのため、子供ができたら、ぜひとも二人だけで寿司屋の暖簾をくぐってみたい。そして、二人だけで思いっきり好きなネタを握ってもらい、食べてみたい。
そう思っていた。
それが今日、実現できそうだ。
こんなチャンスは滅多にない。いや、もうないかも分からない。
そう思うと、本当に落ち着かず、家の中をうろうろとしている自分だった。
父親参観が終わり、私は娘の手を引き幼稚園の玄関を出た。
娘はなぜか不思議そうな顔をしている。
「バスで帰らないの?」
娘は幼稚園バスを横目で見ながら私に言った。
「うん、今日はパパと歩いて帰ろう」
私は遠くを見ながら、そう言い、目的の場所を探していた。
「さーて、どこがいいかな?」
そう思いながら、何軒かのラーメン屋やそば屋を通り過ぎ、信号を四つほど渡った時だった。
目の前に間口は狭いが小奇麗な寿司屋があった。
玄関前には打ち水がしてあり、丸い小窓には色鮮やかな花が生けてある。
「よし、ここにしよう!」
私は娘の手を引き、玄関の引戸を開けようとした時だった。
なぜか不安な気持ちになり、腰ポケットから財布を取り出した。
そして、中身を確認すると、なんと財布の中には伊藤博文が三人しかいなかった。
愕然とした。まだ、回転寿司という庶民の味方がない時代だ。
いくら幼稚園児の娘と二人だけといっても、三千円では寿司屋のカウンターで相対で寿司を注文するには心もとない。
娘と二人だけで寿司屋に行ける。そのことだけに胸が一杯になり、肝心の金のことを完璧に忘れていた。
だが、どうしようもない。金が無いのは現実だし、今に始まったことではない。
私は財布をポケットにつっこむと、娘を見た。
娘は無頓着な顔をして私を見ている。
そしてこう言った。
「パパー、おなかすいた」
正直言って、ドキッとした。
今、この場で寿司が食いたいと言われたら、どう繕ったらいいのか・・・
だが、そんな心配も稀有なものだった。
娘が次に口にしたのは、
「ハンバーグが食べたい」
だった。
どうやら、娘のお腹にいる“腹へった虫”は寿司というものを知らなかったようだ。それも寿司屋で食う生寿司を。
この時は本当にホッとした。
私はすかさず娘の手を引いた。
そしてハンバーグを出していそうなレストランを探した。
二人でトボトボと歩いていると、古くからあるビルの二階に洋食屋があるのを見つけた。
一階の出入口に小さな黒板に書かれたメニューがある。
その中のランチメニューにハンバーグとエビフライ定食というのがあった。
二人で二千円もあればお釣りがくる。
「よし、ここにしよう」
そう思うと、私は娘の手を引き、階段を上った。
二階に上がると、その洋食屋は通路の一番奥にひっそりとあった。
飾り気のないドアを開け、中に入る。
その瞬間、「これはまずい!」という思いが頭の中を過ぎった。
店の中は思ったよりは小奇麗で、それなりに広い店内ではあったが、なんと、客が誰もいないのだ。
昼時という一番稼がなくてはならない時間帯に、客が一人もいない。
客がいないということは・・・
おのずと答えは分かってくる。
私は、思わず帰ろうとした。
だが、その時、厨房の奥からウエートレスが出てきた。
ウエートレスというよりも、オーナーの奥さんのようだ。
それも、まだ若く、長いストレートの黒髪を後ろで一本に束ね、薄化粧で見るからに清楚な女性だった。
どうも私はこういう女性に弱い。
彼女は、
「お二人様ですか?」
と、娘を見ながらにっこりと微笑んでいる。
私はなぜか暗示にかかったように頷いてしまった。
すると彼女はメニュー表を持ち、私と娘を窓際の見晴らしの良いテーブル席に案内した。
席に着くと、メニュー表を置き、
「お決まりになりましたら、お呼びください」
そう言って厨房に戻っていった。
窓からは、路面電車がゴトゴトと、のんびりと走り去っていくのが見える。
お昼休みなのだろうか、小さな公園の白樺の木陰にあるベンチでは、OL風の女性達がサンドイッチ片手にお喋りに興じている。
日常的な風景なのだが、なぜか、ゆったりとした気分にさせてくれた。
私は一通りメニューに目を通したが、注文するのは店に入る前に決めていたので、すぐに彼女を呼び、ハンバーグとエビフライ定食を注文した。
この時には、店に入った時の、あの嫌な不安感は、頭の中からすっかりと消えていた。
逆に、他に客がいないということは、私と娘の二人だけの貸切状態だということだ。
こっちの方が今は嬉しい。
娘と二人だけで食事ができるということの方が。
ほどなくハンバーグとエビフライ定食が運ばれてきた。
あつあつの鉄板の上で、ハンバーグがジュウジュウと音をたて、その横に大ぶりなエビフライが白いタルタルソースに絡まって二本載っている。
見るからに旨そうだ。
思わず娘の顔がほころんだ。
こんな大きなエビフライは見たことがない。
「いただきまーす!」
娘は早速フォークを取ると、エビフライに突き刺し口に運んだ。
だが、その小さな口にはなかなか入らない。
目を丸くしてくわえ、モグモグしている。
口の周りがタルタルソースで真っ白だ。
思わず私は吹き出してしまった。
厨房の片隅からは、あのオーナーの奥さんであろう女性が、ほんのりと笑みを浮かべて見ている。
この時、私は思った。
この店に入って良かったと。
娘と初めて二人だけで食事をする店が、ここで本当に良かったと。
心の底から、そう思った。