誕生
今から25年前の同じ日。
私は一人、眠れない夜を過ごしていた。
前夜からそわそわと落ち着かず、バーボンを飲み干しても酔うことはない。
目を瞑り、ベッドの上に身体を横たえてはいるのだが、なかなか寝つけるものでもない。
それに、いつもなら隣で寝ているはずの妻がいない。
これほど落ち着かない夜を、今まで経験したことはなかった。
空が白み始め、やっと、うとうとしだした頃だった。
家の電話が突然けたたましく鳴った。
私は反射的に飛び起きると、直ぐに受話器を取った。
電話の向こうからは、落ち着いた女性の声が聞こえてくる。
「もしもし、古田さんのお宅でしょうか?」
「あ、ハ、ハイ。そうですが」
返事をする私の声は、うわずっていたが、相手は冷静に淡々と話し続ける。
「こちら市立札幌病院ですが、奥様の陣痛が始まりましたので、直ぐにこちらに来ていただけますか?」
「ハ、ハイ。直ぐに伺います」
「今の時間ですと、正面玄関は鍵が掛かっておりますので、裏口の警備室からお入りください。警備員には伝えておきますので・・・」
そう言って電話は切れた。
私は受話器を置くと、一瞬、次に取るべき行動が分からなくなった。
頭の中は、
「生まれる・・・ 生まれる・・・」
そのことで一杯だ。
黒いダイヤル式の電話の前で立ち尽くし、周りをキョロキョロと眺めているが、何をしていいのかまったく分からない。
それこそ頭の中が真っ白だ。
それでも一呼吸すると、やっと次の行動が浮かんだ。
「着替えなきゃ。とにかく着替え、着替え・・・」
私はパジャマをその場で脱ぎ捨てると、その辺にあるものを着込み、大急ぎで玄関を飛び出した。
そして、タクシーを拾うために、電車通りまで全力で走った。
だが、こういう時に限って流しのタクシーはなかなか来ない。
東の空が明るくなってくる。
「いっそこのまま市立病院まで走るか」
そう思った時、反対車線を一台のタクシーがこちらに向かってきた。
私は手を揚げたが、気づかないようだ。
そのまま私の目の前を通り過ぎようとした時、両手を振りながら思いっきり叫んだ。
「オーイ!!」
やっと気づいたようだ。慌てて急ブレーキを掛けると、ウインカーを出しUターンしてきた。
「運転手さん、市立病院まで! 急いで!!」
慌てる私に、運転手は怪訝な顔をしていた。
「こんな時間に市立病院? どなたか急病でも?」
「い、いや、病気じゃない。病気じゃないけど、生まれそうなんだ!」
「生まれそう? 奥さんが入院しているんですか?」
「そ、そう。だから早く、急いで!!」
一瞬、運転手の顔が引き締まった。
「そりゃあめでたい。おまかせください!」
運転手はニヤッと笑うと、ドアを閉めるなり、いきなりアクセルを吹かした。
市立病院まで吹っ飛ばす。
時間にして数分。
だが、私にとっては、「まだかまだか」という気持ちが強く、とても長い時間に感じていた。
やっと市立病院の表玄関にタクシーが滑り込むと、私は二千円を渡し、釣銭を貰うのも忘れて裏口へと回った。
薄暗いドアを開け警備室をノックすると、白髪混じりの口ひげを生やした温厚そうな警備員が現れた。
夜勤のためか、眠そうな目を擦っている。
「古田さんですか? 連絡は受けております。
分娩室は二階です。そこの階段からお上がりください」
そう言って警備員は、警備室の横の階段を指差した。
私は軽く会釈すると、逸る気持ちを抑えながら階段を駆け上がった。
案内板を見ると、分娩室は二階の廊下の中ほどにある。
私は一人、廊下を歩いていった。
他に歩いている者は誰もいない。
そして、分娩室の前まで来た時だった。
ドアは閉まっていたが、中から、「ドン、ドン、ドン、ドン」という物凄い音が聞こえてくる。
まるで大きな和太鼓を極太のばちで叩き鳴らしているような音だ。
私は一瞬、中で何事が起きているのか、物凄い不安感に包まれた。
ドア越しに中の様子を探ろうと、うろうろしていると、夜勤の看護婦が通りかかった。
「どうしました?」
彼女は私のおろおろとした態度を見て、大体のことは察知しているようだ。
何故か顔がにこやかに笑っている。
「こ、この音は何ですか?」
私は恐る恐る聞いてみた。
すると、看護婦は、明るい笑顔で、
「これですか? これは心音ですよ」
「え? 心音? 心音って心臓の鼓動のことですか? 赤ちゃんの・・・」
私は驚いて聞き返すと、彼女は、ゆっくりと頷き、
「はい、もうすぐですね。お父さんも頑張ってください」
そう言って、にっこりと微笑むと、その場を去っていった。
私はもう一度分娩室のドアを見た。
それにしても、物凄く力強い音だ。
それが、今、まさにこの世に出ようとしている。
私は不思議な感激に包まれ、その場に立ち尽くしてしまった。
そして、数秒も経ったろうか。
「カチャ」という音がすると、分娩室のドアが静かに開いた。
「あ、いらしてたんですか。古田さんですね? どうぞお入りください」
招き入れてくれたのは、黒ぶちのメガネを掛け、スッキリとした顔立ちのまだ若い助産婦だった。
中に入ると、分娩台の上で陣痛に耐える妻の姿があった。
よほど苦しいのか、顔に鬱血が出ている。
「奥さんの手を握って、時々腰をさすってあげてくださいね」
私は助産婦に言われるままに、妻の手を握った。
すでに妻の手は汗ばんでいる。
そして、腰をさすろうとした時だった。
陣痛の波が襲って来た。
妻は顔を歪め歯を食い縛りながら、私の手を思いっきり握っている。
私は思わず、「イテッ!」と叫びながら、手をほどこうとした。
このままでは手の骨が折れそうだ。
しかし、ほどけるものではない。
それこそ、強力な万力でグイグイと締め上げられているようなものだ。
どういうわけか、私も痛みに耐えることになってしまった。
そして数秒後、波は静かに去っていく。
この繰り返しが続き、段々と間隔が短くなってきた時だった。
担当の医師が診察しながら、冷静な声で言った。
「そろそろですから、旦那さんは廊下で待っていてください」
私は外に出されると、廊下のベンチに腰掛、両手を組み、祈る気持ちで待っていた。
どれくらいの時間が経ったのか、まったく憶えていない。
ただ、無事に生まれてくれ。
それだけだった。
そして・・・ 声が聞こえた。
赤ん坊の泣き声だ。
とても大きい。廊下全体に響き渡っている。
本当に元気な泣き声だ。
「生まれた! 生まれたんだ! どっちだ? どっちなんだ!?」
一瞬、「男か? 女か?」という考えが浮かんだが、そんなものはどうでもよかった。
無事に元気な子であれば・・・ ただそれだけだった。
そして、泣き声が止み、数分の時が流れた。
これほどじれったかったことは今までなかった。
私は分娩室のドアを見続けた。
すると、やっとドアが開いた。
中から助産婦が顔を出し、にっこりと微笑みながら言った。
「元気な女の子です。さ、どうぞ!」
私は誘われるままに分娩室の中に入った。
そこには安堵の顔を浮かべながら我子を抱いている妻がいた。
真っ白いタオルに包まれた、本当に小さな子だった。
その子を慈しむように頭を撫でながら微笑んでいる。
私は、
「よくやった」
それしか言えなかった。
いや、それ以外に言葉が浮かばないのだ。
自分が父親になったということが、まだ信じられないでいた。
助産婦から椅子を差し出され、妻の横に腰掛けると、助産婦はヒョイと我子を妻の手から持ち上げ、私に手渡した。
「はい、お父さん」と、いとも簡単に、まるで人形でも扱うかのように。
いくら手馴れているとはいえ、これには正直びっくりした。
まだ首も座っていない生まれたての小さな赤ん坊だ。
それも、私の両の手のひらにすっぽりと納まるくらいに本当に小さい。
私が両手で抱いていても、壊れちゃうんじゃないかと思うほど小さい。
それくらい抱いていても怖かったし、自分の子だというのがまだ実感として涌いてこなかった。
だが、この子を見ていると、まだ生まれたばかりのせいか、うっすらと曇った目を大きく見開き、私をじっと見つめている。
そして大きく口を開けると、思いっきり息を吸い込み、「プハーッ!」と吐き出した。
それも、本当に安心しきった顔だった。
私は思わずお人形のような小さな手のひらに人差指をのせてみた。
すると、グイッと握り返してきたのだ。それも力強く。
この時だった。やっと私は、「この子の父親だ。そして、この子は私の娘だ」
そう思うことができた。
本当に嬉しかった。
これほどの喜びと充実感は、今まで味わったことがない。
私は娘を見つめながら、横にいる妻に深く感謝したのだった。