夜店
夏休みも終わろうとしている八月下旬。蒸し暑さも遠のき、北海道らしい爽やかな風が吹いていた。
練習の合間に白樺の木陰で腰を下ろし、一休みをしていると莞爾が汗を拭きながら話し掛けてきた。
「なあ、リュウスケ。空手って板を割る事が出来るんだろう?」
「試し割りの事か?」
「ああ、やってみてくれないか?」
「そんなこと言っても板がないよ」
「板ならあるわよ!」
不意に後ろから声がした。
振り向くといつの間にか奥さんが立っている。
ニコニコしながら離れの奥を指差した。
そこには建築用の廃材だろうか、無数の板が無造作に積まれていた。
「あの板ならいくら割っても良いわよ。
ちょうど冬用の薪を準備しなきゃと思っていた所なの」
莞爾は龍介を促した。
「よし、それじゃあ久々にやってみるか」
龍介は立ち上がると皆を呼んだ。
「オーイ、これから試し割りをするぞ」
「試し割り? 板なんかどこにあるんだ?」
彰が訊くと龍介は離れの奥を目線で指した。
そこには奥さんがこっちを見ながら、「これこれ」と指を差している。
「あら、良いね、あれ。丁度良いんじゃないの」
彰がウキウキしながら早速板を取りに行った。
持てるだけ抱えてくると、幸太郎に一枚渡す。
見るからに頑丈そうな板だ。
「コウタロウ、ガッチリ持っていろよ! いくぞ!」
幸太郎が板を持つと、彰はすかさず突いた。
「エーイッ!」
次の瞬間、
「パーン」という乾いた音がすると、板は二枚に割れ、地面に転がっていた。
「すげー・・・」
莞爾、哲、幸二の三人は驚きの色を隠せないでいる。
「よし、今度は俺」
幸太郎がそう言うと、彰が板を持った。
幸太郎が構える。
「いくぞー! エーイッ!」
と同時に鈍い音がした。
「ガツン!」
幸太郎の拳は板に当たったまま止まっている。
彰がガッチリと持っている板は微動だにしなかった。
「イッテー・・・!」
痛みが拳の先から腕に伝わり脳みそを掻き回しているようだ。
幸太郎は腕を抱えながらうずくまった。
「あーらら? 割れていませんね〜」
彰は笑いながら板を何回も引っくり返し、見ている。
「やっぱり難しいんだ」
莞爾が首を傾げ呟くと龍介は言った。
「いや、そんな事はない。要は集中するかしないかだ。
つまり、拳が板に当たる瞬間に気を集中させる。
それも爆発的に。
そして一番大事なのは絶対に割れる。
そう自分自身に言い聞かすことだ」
龍介は広子を呼んだ。
「ヒロコもやってみよう」
「押忍!」
広子がゆっくりと歩み出た。
龍介は広子の高さに合わせ、腰を落として板を持った。
広子はタイミングを計っている。
目が真剣だ。
「エイッ!!」
気合と共に突いた瞬間、「ポコッ」と音がした。
板は龍介の手の中で割れていた。
「割れた!」
「おぉお〜・・・」
莞爾達の間でどよめきが起きた。
中でも幸二は広子に近づき中腰になると、頭を撫でながら一言、二言声をかけている。
優しい目。幸二にとっても広子は愛しくてしょうがないようだ。
そんな二人を横目で見ながら、興奮の収まらない莞爾は龍介に訊いた。
「リュウスケ、今度は同時に何枚かの板を割る事が出来るか?」
頷くと、龍介は板を四枚持ち、彰、幸太郎、菜美、梨絵にそれぞれ一枚ずつ手渡した。
正面に彰、左右に菜美と梨絵、そして後ろに幸太郎が板を持って立った。
龍介は慎重に間合いを計り、「フーッ」と息を整えている。
次の瞬間。
「エーイッ!! ヤーッ!!」
気合と共に蹴りだした足と突きは、あっと言う間に四枚の板を空中に弾き飛ばしていた。
見ている者は言葉も出ない。
莞爾達は口を開け、唖然としている。
龍介は息を整えながらゆっくりと姿勢を戻した。
「押忍」
静かに言うと背後から手を叩く者がいた。
「すごいわね〜 久しぶりに見たわ。
そこまでの試割りは・・・」
奥さんだった。
横では住職がニヤッと笑い、頷いている。
「そうだ、もうすぐ夏休みも終わりでしょう。
下の神社でお祭りがあるから今晩行ってみたら?
夜店も結構出ているから楽しいよ」
奥さんに言われると全員が浮き足立った。
「お兄ちゃん、早く行こうよ」
広子は幸太郎の袖を引っ張っている。
「ヒロコ、まだだよ。
ちゃんと晩御飯を食べてから」
「ウーン・・・」
広子は不満げだ。
そんな広子が幸二はたまらなく可愛いようだ。
「ヒロコ、お兄ちゃんの言う事はちゃんと聞いて。
俺達も向こうで待っているから。
御飯食べてからな」
そう言うと莞爾達三人は帰って行った。
神社で待ち合わす事を約束して。
莞爾は夕飯を終えると直ぐに家を出た。
途中で哲と幸二と待ち合わせをし、そのまま神社に向かった。
目指す神社はロープウエー横の坂道を山沿いに15分ほど歩いた所にある。
陽が沈み、山の向こうが紅く染まると、夜店の裸電球が眩しいくらいに輝きだした。
「リュウスケ達はまだ来ていないようだな」
莞爾は人ごみの中を遠目に見渡した。
「ああ、まだちょっと早いからな。
あいつら来るまで遊んでいようよ」
哲に誘われるままに射的屋に入った。
店主に百円を渡し、皿に乗ったコルクの弾を貰うと銃身に込めた。
狙う獲物はプラモデル。
「パチン!」
箱は倒れなかった。
幸二と哲も好きな獲物を狙う。
だが、そう簡単に倒れるものではない。
「上手くいかねーな」
もう一度弾を込め、狙いを定める。
「今度こそ・・・」
そう思っていると、店の裏で微かだが声が聞こえた。
三人は構えていた鉄砲を置き、じっと耳を澄ませた。
店の裏には用水路があり、その向こうに資材置場がある。
そこで小競り合いをしているようだ。
雑踏の中でも分かる聞き覚えのある声だった。
三人は顔を見合わせると、軽く頷いた。
ゆっくりと店を出ると裏に回った。
そこは表通りの光は届かない。
しかし、その声だけは、はっきりと聞えてきた。
暗闇の中で人影が動いているのが見えた。
複数の男達が少年二人を取り囲んでいるようだ。
その中に一際身体の大きい奴がいた。
正和だった。
少年達を暗がりに連れ込み、かつあげをやっているようだ。
哲と幸二はそっとその場を離れようとした。
こんなところで正和に係わり合うのはまっぴらごめんだ。
しかし、莞爾が哲の袖を引っ張った。
「見ろよ、あの二人。やられているのは先輩の加山と大野だ」
哲と幸二は立ち止まり、もう一度見直した。
確かに加山と大野だった。
二人とも恐怖で顔が引きつり、虚ろな目をしている。
「ほっとけよ! あいつらはろくな先輩じゃない。俺達を見捨てたじゃないか!」
あの時の光景が鮮明に脳裏に浮かんでくる。
哲は吐き捨てるように言うと戻ろうとした。
「待てよ。ほっておくのか? そんなことしたら、俺達もあのろくでもない先輩と同じになっちまう。それでも良いのか?」
莞爾の目が何かを言いたげだった。
哲は訊いた。
「どうするんだ? 助けるのか・・・?」
莞爾はゆっくりと頷くと二人を見た。
その目には、何か力強いものが帯びていたのだった。
龍介達六人は夕飯を終えると、のんびりとロープウエー横の坂道を下って行った。
陽はすでに落ち、裸電球に白いガラスの傘がついた街灯がポツポツと並んでいる。
街灯に導かれるように山沿いの道を歩いていると、遠くに眩い光が浮かんでいる。
鳥居につながる表参道の両脇をびっしりと夜店が並んでいた。
「あそこだ!」
誰ともなくそう言うと、皆小走りで駆け出した。
近くまで行くと何やらいい匂いが立ち込めている。
イカ焼とツブ焼だ。
御飯を食べたばかりだというのに、彰と幸太郎は匂いに誘われ、思わず訊いた。
「おじさん、これ幾ら?」
白い手拭で鉢巻をした店主は無愛想に言う。
「イカは一ぱい二百円。ツブは三個で二百円」
「じゃあ、イカを下さい」
「ぼくはツブ」
彰と幸太郎はそれぞれ、イカ焼きとツブ焼きを旨そうに頬張っている。
その間、龍介はタコ焼きを探していた。
しかし、どこを見てもそれらしい屋台がない。
「おかしいな〜 この時代は札幌にはまだタコ焼きがなかったのかな」
そう思って見渡すと目の前におでん屋があった。
グツグツとこれ又良い匂いを発している。
「すいませーん、おでん幾らですか?」
初老の女店主に訊いた。
「お兄ちゃんなら、その皿山盛りが二百円で良いよ。好きなのをお取り」
皺の刻まれた目尻が笑っている。
龍介は迷わず皿を手に取り、おでんをテンコ盛りにした。
「うまい!」
店の前で食べていると、彰と幸太郎がやって来た。
二人ともほっぺたを膨らませて。
その後ろには菜美、梨絵、広子が続いていた。
手にはそれぞれ、とうきび、りんご飴、わた飴を持っている。
「結局みんな又食べているじゃないか」
龍介が言うと皆笑っていた。
その時、広子が向かいの夜店で何かを見つけたようだ。
見入ったまま動こうとしない。
「ヒロコ、何があるんだ、そこに?」
幸太郎が訊いても返事が返ってこない。
その代わり店の中から、「ピヨピヨ」という鳴声がしてきた。
「ひよこ?」
全員で覗き込んだ。
ひよこ・・・? のようだった。
ただ、姿かたちは確かにひよこなのだが、色が酷い。
黄色い普通のひよこは数羽だけ。
そのほとんどが赤や青。そして緑やピンクに塗られている。
「ゲーッ、ここまでするか〜」
龍介の言ったこの一言が店主を怒らせてしまった。
「オイ! おまえら! 買う気がないなら、あっち行ってくれ! 商売のじゃまだ!!」
あっというまに追い払われてしまった。
しかたがないので、龍介達は人込みに押されながら莞爾達を探した。
通りの両側には、ヨーヨー釣りと金魚掬いの店が並んでいる。
「この辺は変わらないんだな。今も昔も・・・ いや、この時代からと言った方がいいのかな・・・」
そう思っていると、ちょっと大き目の小屋の前に黒いシルクハットを頭にのせ、ちょび髭を生やした男が立っていた。
ステッキを持ちモーニング姿の風体は、昔の映画で見た喜劇王のようだ。
男は何やら訳の分からぬ口上を述べている。
「さあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい。中にいるのは世にも不思議な生き物だ。これを見なきゃ今晩は寝られないよ〜 さあ、入った入った。お代はたったの三百円だ〜」
男の横に立て掛けてある看板を見たとき、龍介はつい「ブフッ!」と吹きだしそうになってしまった。
そこには『たこ女』と書かれていた。
男の口上はまだ続いた。
「さあ、さあ、さあ。嘘だと思う人にはちょっとだけ見せてあげよう」
そう言うと男は片手で後ろのカーテンを少しだけ捲って見せた。
その向こうには水槽のような物があり、巨大なタコの足らしきものがモゾモゾと動いている。
だが・・・ よくよく見ると、どう見ても作りものだ。
「ここから先を見たい人は・・・さあ、入った入った〜 お代はたったの三百円だ〜 そこのお兄ちゃん、お姉ちゃん。見ていかないかい? 見ないと後で後悔するよ! さあ、入った入った〜」
龍介達は男の誘いをやんわりと断り、急いでその場を去った。
「あんなもの、見たいと思う奴なんかいるのか?」
彰が言うと幸太郎が答えた。
「いるから商売になっているんじゃないの?」
そんなたわいのない事を言いながら歩いていると、射的屋の前に来た。
「あっ、これ面白そう」
幸太郎は店主に百円を払い、弾を込めた。
「お兄ちゃん、あれが欲しい」
広子が棚に並んでいるクマのぬいぐるみを指差した。
幸太郎は慎重に狙いを定めた。
「パチン!」
弾は当たったがぬいぐるみは少しずれただけで、棚から落ちてはこなかった。
「クソッ! もうちょっとだったのに・・・」
もう一度弾を込め、ぬいぐるみを狙う。
「パチン!」
落ちた!
ぬいぐるみは棚から落ち、床に転がっている。
「やったー!!」
広子がはしゃいでいると龍介が何かの気配を感じたようだ。
そっと耳を澄ました。
彰も感じている。
二人は店の外に出ると、裏に回った。
暗くてよく見えないが、用水路の向こうにある資材置場で何か言い争いをしているようだ。
足を忍ばせてゆっくりと近づいた。
後ろからは幸太郎達全員がついてくる。
用水路まで近づくと争っている声がはっきりと聞こえた。
「リュウスケ、父ちゃん達だ。それにあいつはマサカズだぞ」
幸太郎が耳元で囁くように言った。
「助けるか?」
彰が言うと龍介は首を横に振った。
「いや、もうちょっと様子を見よう」
龍介達はそのまま用水路の手前で莞爾達を見守っていた。
「よーカンジ。いいところに来た。ちょっと助けてくれねーか? こいつら俺の言う事がまったく分からねーみたいなんだ。言う事聞かねーとどういう目に合うかよ!」
背後から近づいた莞爾達に気づいた正和は振り向きざまに言った。
しかし、莞爾達の鋭い目は加山と大野ではなく正和に向いていた。
「止めろ! いつまでこんな事を続けるつもりだ? いいかげんに止めたらどうだ?」
低く力を込めて言い放った。
考えてもいなかった言葉に正和は一瞬戸惑った。
「何だ? おめーら。 いつからそんな口が利ける身分になったんだ?
あぁ〜? そんな事言っていいのか? 又痛い目にあいてーのかよ!!」
正和の形相が変わった。
目は釣り上がり、眉間に皺が寄っている。
加山と大野は震えながら莞爾達の後ろに隠れるように身を潜めた。
すると、その周りをぐるりと正和の手下達が取り囲んだ。総勢十人はいる。
莞爾、哲、幸二の三人は、間合いを取るようにゆっくりと体を開いた。
「オイ、オイ、オイ・・・何考えているんだおめーら。
やる気か? 俺達と・・・」
正和がそう呟いた時だった。
「エーイッ!!」
気合一発、莞爾の前蹴りが正和のみぞおちにめり込んだ。
と同時に哲と幸二の横蹴りが両脇にいた手下を蹴り飛ばす。
不意を突かれた正和は呻きながらかがみ込んだ。
「なんじゃ〜 こりゃ〜!」
正和の脳天は完全に切れた。
「やっちまえー!!」
手下は莞爾達に襲い掛かった。
こうなると多勢に無勢だ。にわか仕込みの空手など通用しない。
蹴っても突いても次々と向かって来る。
「ウォリャー!」
手下の一人に腕を取られた幸二はあっと言う間に投げられた。
哲も腰を払われ投げ飛ばされている。
この間に加山と大野はそそくさと逃げ出した。
「やっぱりか・・・ 情けない先輩だ!」
その姿が横目に写った瞬間、莞爾は正和に突き飛ばされていた。
「おめーら、いい根性しているじゃねーかよ! こうなったら徹底して叩き直してやる!!」
大の字にのびた莞爾の前に正和は鬼のように立っていた。
目は血走り、唇はヒクヒクとよだれを垂らしている。
その時、端の方にいた手下が弾き飛ばされるように用水路に落ちた。
そしてもう一人。
「ザバーン!」という水の音。
暗闇の中をスッスッと人影が動く。
「だれだ!?」
正和が睨みを利かすと、暗闇の中から前に一度だけ会った事のある少年達が忽然と現れた。
「おまえ。ヘッヘッヘッ・・・この前の続きが出来そうだな〜 おやおやおや、女の子も一緒かい」
正和は、よだれの垂れる唇をニターッと横に開いた。
「オイ、こいつら皆やっちまえ! 女だって構やぁ〜しねー!」
手下が龍介達を囲むように迫ってくる。
幸太郎は広子をかばうように囁いた。
「ヒロコ、危ないから下がってなさい」
広子は松の木に身を潜めると、手下の一人が梨絵に襲い掛かった。
一番弱そうな奴を最初にやる。これは常套手段だ。
だが今回だけは違った。
「エーイッ!!」
気合一発。梨絵の背刀(はいとう)が突き上げると、相手の右顎をいとも簡単に砕いていた。
手下はガクッと膝から崩れ落ちると、うつ伏せのまま動かない。
菜美と幸太郎にも手下は襲い掛かかる。
だが、結果は同じだ。
彰には二人同時に襲い掛かった。
「ハイーッ!!」
彰の体が一瞬宙に浮くと、二段蹴りで二人同時に蹴り倒す。
残った手下四人は龍介を囲み、じわじわと間合いを詰めてくる。
龍介は前を見つめ、全身で相手の動きを感じ取っている。
後ろにいた手下が突っかけようとした瞬間だった。
「ハィッ!!」
短い気合とともに、いきなり龍介の後ろ蹴りが飛んできた。と同時に、残り三人は突きと横蹴りで弾き飛ばされていた。
あっと言う間だった。
時間にして数秒。いやそれ以下だったのかも分からない。
あとは正和ただ一人。
「あ〜ら・・・! あんた一人になっちゃったよ! どうするの? このまま帰る? それとも・・・ 俺達とまだ・・・ やる気?」
彰が茶化すように言った。
正和の顔は真っ赤に膨らみ、逆立った髪の毛からは湯気が立っている。
「あら〜 こいつやる気だよ。しかたねーなー」
彰が両手を広げ相手をしようとすると、龍介が止めた。
「こいつは俺がやる」
「大丈夫か? 一人で」
彰が真顔で訊くと龍介は軽く頷いた。
龍介は正和の前に歩み出た。
半身に構え、対峙する。
正和は龍介を睨みつけたまま、小刻みに体を震わせている。
その震えが頂点に達した時、
「ウォーーーーッ!!」
という唸り声と共に龍介めがけて突進してきた。
龍介は軽くステップを踏んだ。
体を交わすと正和はそのまま楡の大木に頭からぶつかっていった。
「ズゥーーーン!」という鈍い音がすると、上からパラパラと木の葉が舞い落ちてくる。
「すげーな、こいつ。 これじゃあまるでクマだ」
彰が呟くと、正和は楡の木にぶち当たった顔をゆっくりと引き抜くように上げた。
振り向くと額から赤いものが流れている。
それを手の甲で拭い、ひと舐めするとニヤッと笑った。
「いいなぁ。楽しいな〜 こんな気分久々だぁ〜 ヘッヘッヘッヘッ・・・」
気がふれたようだ。
両手を前に出し、ズシッ、ズシッ、と龍介に向かって来る。
まるで両足で立ち上がり、手をかざして襲い掛かる巨大なヒグマのように・・・
「ハィーヤッ!!」
龍介は飛んだ。
空中で体を捻ると、狙い済ましたように右足刀を蹴り出した。
しかし・・・ 簡単に払われた。
着地し、振り返ると正和の唇が痙攣するようにヒクヒクと笑っている。
龍介は戸惑っていた。もっとも得意とする足刀を、いとも簡単に払われたのは初めてだ。
正和がゆっくりと向かって来る。
龍介はジリジリと下がりながら二〜三発回し蹴りを入れたが、まるで利かない。
「まずいなこれ」
彰が不安そうに首を横に振った。
龍介は下腹を狙って前蹴りを出すが、これも正和の分厚い肉に阻まれた。
「クソッ! なんてタフな野郎だ。ほんとにクマみてーだ」
龍介は考えた。
これしかない。
貫手(ぬきて)で喉を潰す。
突然龍介は親指を曲げ、四本の指に気を集中させ伸ばした。
「エーイッ!!」
地面を蹴ると正和の懐に飛び込んだ。喉を狙って。
次の瞬間、龍介の身体は正和の丸太のような両腕に抱え込まれていた。
「ウォーーーッ!!」
そのまま正和は体を浴びせる。
「ズゥーーーン!」という地響きが鳴った。
菜美と梨絵は思わず両手で顔を覆っていた。
龍介の身体は正和の巨体の下で見えない。
数秒の時が流れる。最悪の状態を誰もが思っていた。
しかし、倒れこんだ二人のうち、最初に呻き声をあげたのは上に乗っている正和の方だった。
「ウゥゥーー」
両手で左脇腹を押さえている。
そのまま転がるように仰向けになると、龍介の右膝が正和の脇腹をえぐっていた。
「勝った・・・!」
広げた指の隙間から覗いていた菜美は思った。
「さすがは私の弟!」
ニヤッと笑うと手を降ろし、龍介に駆け寄った。
皆も集まってくる。
「大丈夫か? リュウスケ」
彰が訊くと、リュウスケはむっくりと起き上がった。
そしてトントンと軽くステップを踏むと首を大きく二度回した。
「ああ、大丈夫だ。
それにしても、とんでもない奴だなこいつは・・・
貫手も利かないし、抱え込まれた時はほんとに駄目だと思った」
そう言って見下ろすと正和はまだ呻き声を上げていた。
「ところで父ちゃん達は大丈夫か?」
思わず言ってしまった。
気を付けているつもりだが、つい本音が出る。
「三人とも大丈夫だ。もう気が付いている」
幸太郎が意識を取り戻した莞爾達を見ながら言った。
「よし、それじゃあ帰ろうか」
龍介達は莞爾達の方に行こうと踵を返した時、正和が低く唸った。
「待てよ!」
そう言うとゆっくり身体を起こした。
左手はまだ脇腹を押さえている。
「チィー・・・ あばらが何本か折れたみたいだ。俺の負けだよ・・・初めてだ、おめーみてーな奴は・・・名前は何て言うんだ?」
龍介は迷った。しかし、こいつに名前を言う訳にはいかない。
無言で首を横に振った。
「そうかい・・・ じゃあ、一つだけ教えてくれ。おめーに空手を教えたのは誰だ? そいつの名前を教えてくれねーか? せめてそれぐらいはいいだろう」
危なく、「お前だ」と言うところだった。
しかし、思いがけない名前が口から出た。
「中井・・・ 中井先生だ!」
中井とは住職の名前だ。
どうして住職の名前を言ったのか、自分でも不思議だった。
「中井? そいつはどこにいる?」
正和が訊くと、龍介は吐き捨てるように言った。
「自分で探せ!」
くるりと背を向けると、皆は莞爾達の周りに集まった。
莞爾、哲、幸二の三人は、龍介達の顔を一人一人確かめるように眺めた。
「マサカズ達をやってくれたのか?」
龍介は軽く頷いた。
「もう大丈夫だ。手を出すことはないだろう」
同意を求めようと幸太郎の方を向いた時だった。
幸太郎はうわの空でぼんやりと円山の上空を見ている。
「コウタロウ。聞いているのか? 何を見ているんだ?」
幸太郎は振り向きもしない。
ただ、ひとり言のように呟いた。
「同じだ・・・ あの時と・・・ 動いている・・・」
「動いている? 何が・・・」
龍介が訊くと、幸太郎は右手をゆっくりと上げ、円山の上空を指差した。
そこには一際輝いている星があった。
金星だった。
それは大きく瞬きながら、ゆっくりと北に移動している。
龍介、彰、幸太郎、菜美、梨絵、広子、そして莞爾、哲、幸二の全員が空を見上げていた。
「始まる・・・ 始まるぞ・・・ 帰れる・・・ 帰れるんだ!」
呟くように話していた幸太郎の語気が急に強くなった。
「戻れ! 平和塔に戻るんだ!! 帰れるぞ! 急げー・・・!!」
龍介達六人は空を見上げながら走り出した。
その時だった。後ろの方で、「キャー」という鋭い悲鳴が聞こえた。
「お兄ちゃん、助けてー!!」
広子の声だ。
振り返ると、目を覚ました手下の一人が広子を小脇に抱え、反対の方向へ連れ去って行くのが見えた。
「ヒロコー・・・!!」
叫びながら幸太郎は追おうとした。
しかし、幸太郎よりも早く広子を追っている者がいた。
幸二だった。
幸二は振り向きざまに叫ぶように言った。
「コウタロウ、戻れ・・・!! 早く行くんだー・・・!!
ヒロコは俺が連れて行く! 必ず連れて行くから、早く行くんだー!!」
その後を莞爾と哲も追っている。
立ち止まった幸太郎の両脇を龍介と彰が掴んだ。
「行くぞ! ヒロコはコウジにまかせろ!」
龍介達は全速で平和塔へ向かった。