帰還
龍介達は、わき目も振らず一目散に走った。
時々、円山上空を見る。
徐々に金星の動きが速まっている。
「急がないと・・・ 間に合わない・・・」
焦る気持ちがさらに足を速めた。
最後尾を走る幸太郎は時々振り返った。
広子の姿はまだ見えない。
心の中で叫んだ。
「早くしろヒロコ・・・ 父ちゃん、何やっているんだ・・・ 早く!」
五人はロープウエー横の坂を駆け上り、寺の境内を抜ける。
その姿を本堂の陰で住職と奥さんが見ていた。
「やっと帰れるんですね」
奥さんが優しく見守りながら言った。
「そうですね、どこに帰るんでしょうか?」
住職は相変わらずとぼけた顔をしている。
「アメリカじゃあないですか?」
そう、奥さんが微笑みながら言うと、
「アメリカですか・・・ ホッホッホッホッ・・・」
住職は声を立てて笑った。
五人は墓地の中を駆け上った。
息が乱れる。
三重の塔を過ぎ、細い山道に入る。
樹木が鬱蒼と生い茂り、空がなかなか見えない。
「待っていてくれ。まだ行かないでくれ。もうすぐ・・・ もうすぐ着くから!」
見えない金星に気が焦った。
膝が震え、足がつる。
息が上がり、呼吸が苦しい。
その時・・・ 見えた。
闇の中に浮かび上がる白いドーム状の塔が。
「間に合った!」
龍介が振り返ると、皆は膝に手をつきヨタヨタとふらつきながら登ってくる。
「早くしろ!!」
大声で怒鳴るように叫んだ。
なんとか平和塔に着くと、全員が一斉にしゃがみ込んだ。
肩が深い息で揺れている。
その中で幸太郎は一人立ち上がり、振り返った。
「ヒロコが・・・ ヒロコがまだ来ない・・・ 戻らなきゃ・・・」
フラフラと今来た山道を戻ろうとする。
その時、空を見上げていた彰が突然大声で叫んだ。
「始まるぞ!!」
金星は西の空をまるで飛ぶように北に向かって移動しだした。
龍介は慌てて幸太郎を止めた。
両腕で、しっかりと抱きかかえる。
「離せ! 離せ、リュウスケ! ヒロコが・・・ ヒロコがまだ来ない!!」
幸太郎がもがくと同時に白く冷たい霧が立ち込め皆を包み始めた。
来た時と同じだ。
身体が一瞬フワッと軽くなる。
そして両手で塞ぎたい程の強い耳鳴りに襲われ、五人はそのまま気を失った。
龍介は地面からの冷気でぼんやりと目を覚ました。
なぜか肌寒い。
両腕を擦りながら起き上がった。
周りには彰、幸太郎、菜美、梨絵の四人が眠るように倒れている。
龍介は夜空を見上げた。
西の空にはいつもと変わらない金星が瞬いている。
「あれ? 何も変わってないんじゃないか? 戻れなかったのか・・・?」
龍介の胸に不安感が漂う。
直ぐに皆を叩き起こした。
「いっけねー、寝ちまった。早く戻らなきゃ。皆心配している」
目を覚ました彰が不思議な事を言っている。
「戻るってどこにだ?」
龍介は訊いてみた。
「何言っているんだ。道場に決まっているだろ」
彰は龍介を見ながら極当たり前のように答えた。
菜美も頷きながら同じような事を言う。
「リュウスケ、早く帰ろう」
もっと不思議なのは幸太郎だった。
「ヒロコが・・・ ヒロコが道場で待っている。早く帰らなきゃ」
何処か遠くを見ながら、虚ろな目をして立ち上がった。
龍介には皆何を言っているのかまったく分からない。
彰は梨絵の手を引くと山道を降り始めた。
皆もその後に続いた。
ただ、誰も喋ろうとしない。
無言のまま山道を降りて行く。
三重の塔まで降りたとき、龍介は思わず立ち止まり目を見張った。
そこから先には広大な墓地が広がり、その向こうに懐かしく美しい夜景が見える。
ビルやマンションが立ち並び、道路を埋め尽くす車のヘッドライトが眩しい。
「戻った・・・ 戻れたんだ! 俺達の時代に・・・」
龍介は喜び勇んで声を掛けた。
「アキラ、戻っているぞ! 帰れたんだ! 俺達の時代に!!」
しかし、龍介の言葉に彰の表情は変わらない。
無言のまま墓地の中を降りて行く。
他の皆も同じだ。
「どうしたんだ? 皆・・・ 戻れたんだ。見てみろ! 俺達の時代だ!」
龍介は札幌の夜景を指した。
すると、彰はゆっくりと振り向いた。
「何言っているんだ? いつもと変わらないじゃないか」
龍介は唖然とした。皆何の感傷もないようだ。
龍介には今の状況がまったく理解出来なかった。
「どういう事だ? 俺以外の皆はあの時代に行ったという記憶がまったくないのか? 過去にタイムスリップしたという事を憶えていないのか? それとも・・・ もしかしたら俺がおかしいのか?」
境内を抜けようとした時だった。寺の陰で背を丸めた年老いた僧侶が、合掌し一礼するのが見えたような気がした。
「和尚さん・・・」
もう一度振り向いたが、その時には人影はなかった。
龍介は訳が分からないまま皆の後をついて行った。
ロープウエーの山麓駅からは大型のゴンドラが登って行く。
坂を降り、環状線に出ると次から次と車が走って行く。
やっと横断歩道を渡り、中学校の前まで来ると龍介の足が止まった。
選挙用の掲示板に目がいったまま動かない。
「どういうことだ・・・?」
以前に貼ってあった立候補者が変わっていたのだ。
そこには大野章三という人物ではなく、黒岩哲という名前のポスターが貼ってあった。
それは間違いなく彰の父ちゃんだ。
龍介は彰の腕を掴み思わず訊いた。
「アキラ、お前の父ちゃんいつ市長選に立候補したんだ?」
彰は怪訝な顔をして答えた。
「何言っているんだ? うちの父ちゃんは最初から出馬しているだろう。
それに市長選に出るのは助役になった時からの父ちゃんの夢だ」
「エッ?」と思った。
彰の父ちゃんが助役になっている。
何かおかしい・・・ 何かが違う・・・
龍介達はマンション街の路地を通り、道場へ向かった。
近くまで来ると門下生達の声が聞こえてくる。
「エイッ! ヤーッ!」
活気のある声だ。
今までの道場が嘘みたいに思える。
龍介は道場の前で立ち止まると、ガラス窓越しに中を窺った。
なんと、そこには張り切った姿の久美子先生がいた。
離婚話が出ているなんて嘘のようだ。
明るく笑顔を振り撒き低学年の子を教えている。
そしてその中に・・・ あの広子がいた。
一生懸命に形の練習をしている。
「あれ・・・? ヒロコ・・・ いったい、いつ・・・ どうやって・・・
帰って来たんだ・・・?」
龍介が中を覗いている間、誰も中に入ろうとしない。
サボっていたことが、バレるのが怖いようだ。
広子を見つけた龍介は窓から離れ、何気なく玄関の上を見た。
「あら〜 どうなっているんだ?」
ここも変わっていた。
いつもと違う看板が揚がっている。
『全日本武闘空手道中井派竹田流拳誓会』
常に磨かれているのかピカピカに光っている。
「どういう事だ? いつから道場の名前が変わったんだ?
それもこんなに長い名前に・・・」
龍介は最初から読み始めた。
が・・・ 途中で止まった。
それは次の二文字で。
「中井・・・? まさか・・・」
もう一度ガラス窓越しに道場を覗いた。
気のせいか竹田の身体が引き締まっているように見えた。
この時、ガラス窓に顔を近づけすぎたのか、振り向いた竹田と目が合ってしまった。
「おーい、そこにいるのはリュウスケか? なんだ、他にも皆いるのか? さっさと中に入れー」
龍介達はおずおずとドアを開け、ゆっくりと中に入った。
「よーし、今日はこの辺で終わりにしよう」
「礼!」
「押忍!」
門下生達は荒い息を整えながら全員並んで正座をした。その前に竹田と久美子先生が座っている。
ちょうど練習が終わり、先生のお話があるようだ。龍介達も急いで末席に座った。
「よーし、今日は先生の若い時の話をしよう。空手を習うきっかけとなった話だ。そう、君達と同じくらい。中学生の時だった。先生は悪でな・・・」
「エー・・・?」と言うどよめきが起こる。
横では久美子先生が口に手を当て、笑っていた。
「いやいや、本当の話だ。自分で言うのもなんだが、博打にかつあげ、それに喧嘩。悪の限りを尽くしていた。町内でも鼻つまみ者でな。大人でさえ誰も相手にしてくれない。みんな俺から逃げて行くんだ。またマサカズが来たってな。
そんなある日のことだった。そうだ、神社のお祭りがあった日だ。俺はいつものように弱そうな奴を見つけて、かつあげをしていたんだ。そしたらな、急に見慣れない連中が飛び込んできた。そうそう。おーい、リュウスケ。そういえばお前に似ていたぞ」
竹田がそう言うと、全員が振り返り、一番後ろに座っている龍介を見た。
龍介は思わず下を向いた。
さっき迄の出来事が頭の中を駆け巡った。
「まさかバレてんじゃないだろうな」
心の底でそう思った。
しかし、そんな事はなかった。
「おいおい、そんなにリュウスケを見るな。
恥ずかしがっているだろう」
竹田は力強い声で皆に言った。
「そいつは強かった。リュウスケなんか問題にならない」
門下生の間からクスクスと含み笑いが漏れた。
竹田も一度笑みを浮かべると、さらに話続けた。
「俺はそいつと一対一の勝負をした。そして・・・ 完璧に負けた。
あばらを三本折られてな・・・」
「エー・・・ 先生でも負ける事あるの?」
門下生全員が信じられないという顔をしていた。
だが、龍介だけは腹の底で笑っていた。
「あばら三本折れていたとは・・・ そいつは知らなかった・・・ クックックッ・・・」
竹田は昔を思い出すかのようにゆっくりと頷いた。
そして、低く静かに言い放った。
「ああ、負けたよ。見事にな・・・ 喧嘩に負けたのは後にも先にもその一回だけだ。俺はそいつに名前を訊いた。しかし、教えてはもらえなかった。そこで誰に空手を習ったのか訊いてみた。せめて先生の名前だけでも教えてくれってな。
すると・・・ 教えてくれた。
先生の名は・・・ 中井だと。その後に俺は必死で探した。中井先生がどこにいるかと。すると、すぐ近くにいたんだ。
先生は何と寺の和尚さんだった。俺は和尚さんに頼み込んだ。空手を教えてくれって。だが、あっさりと断られた。
お前みたいな乱暴者には空手は教えられないってな。
そこで俺は毎日寺に通った。
和尚さんがうんと言うまで・・・
一年三六五日・・・ 毎日。
一年かかり、やっと入門の許可が下りた。
そっからはしごかれたなー。
空手の練習もそうだが、人間としてどうあるべきか、ということを徹底して叩き込まれた。今の俺があるのも先生のおかげだ。亡き中井先生の・・・」
竹田は天井を見上げた。
恩師を懐かしんでいるのか、涙ぐんでいるようにも見えた。
だが、龍介は別の事を考えていた。
「和尚さんは死んだって? じゃあここに来る時に見たあのお坊さんはいったい誰だったんだ? 年老いてはいたけど和尚さんそっくりだった・・・」
龍介は一瞬背筋が寒くなった。
だが、竹田の大きな声がその思いをかき消した。
「よし! 今日はこれでおしまい。みんな気をつけて帰るように!」
「押忍!」
門下生は全員立ち上がった。
龍介達も立ち上がると、幸太郎が広子に歩み寄った。
「ヒロコ、ごめんごめん。遅くなっちゃった」
幸太郎が声を掛けたが、広子は首を傾げ、とんちんかんな顔をしている。
「お兄ちゃん、何を言っているの? 私はヒロミ! ヒロコはお母さんでしょ!!」
横で聞いていた龍介は驚いた。
広子だと思っていた女の子は広美という。
そして広子は母の名だと言った。
「いったい、どうなっているんだ?」
龍介には訳が分からない。理解する事などまったくできなかった。
それよりも何よりも、この事に周りの皆は誰も驚かない。
菜美も・・・ 彰も・・・ 梨絵も・・・ そして幸太郎本人も・・・
ごく当たり前だと思っている。
「ごめんごめん、ヒロミ。
今日のお兄ちゃん、ちょっとおかしいんだ。頭がボーとして・・・」
「ほんとにもう・・・ もうすぐお母さん迎えに来るよ」
「エッ? 迎えに来るのか?」
「忘れたの〜・・・?」
さすがに広美はムッとして口を尖らせた。
「今日はお父さんの昇進祝いでしょ! だから皆で食事に行こうって!」
幸太郎はしばし上を向いて考えた。
「あ、そうだ、思い出した。父ちゃん支店長になったんだ」
自分自身に言い聞かせるように頷いていると、後ろから懐かしい声がした。
「お帰りなさい。お兄ちゃん」
大人びてはいたが確かに聞き覚えのある声だった。
振り返ると、そこには母となった広子がいた。
愛しく優しい眼差しで幸太郎を見ている。
そしてもう一度言った。
小さく消え入るような声で。
「おかえり・・・ 長かったわ・・・ ずっと待っているのは・・・」
見ていた龍介は唖然とした。
「こういう事だったのか・・・ コウジが必ず連れて帰るって言っていたのは・・・」
何もかもが変わっていた。
確かに同じ時代に戻れはしたが・・・
龍介は急に家の事が気になった。
ここまで変わっているという事は、自分の家はいったいどういう風になっているのか・・・
「姉ちゃん! 早く家に帰るぞ!」
菜美の手を取ると、家に急いだ。