寺
龍介達はY字路を左に上り、ロープウエーの山麓駅を通り過ぎると、平和塔下の寺の境内に戻って来た。
ギラつく太陽を避け、木陰の下に集まると皆座り込んでしまった。
芝生の上で木の葉の影が揺らいでいる。
その影も時間が経ち、日が傾くにつれ伸びて行く。
誰ともなくその影を追っている。
何かを紛らわそうとして・・・
「これからどうする?」
彰が訊いた。
「どうするって? そんなもん分かんないよ」
龍介が答える。
皆俯いたまま言葉がない。
「お兄ちゃん、どうするの? おうちに帰れるの?」
広子がか細い声で幸太郎のシャツを引っ張った。
しかし、幸太郎は広子の頭を撫でることしかできなかった。
その時、木の葉の影の間にスーッと細長い影が伸びてきた。
龍介が振り返ると、そこには細面で白い顎鬚を生やした住職が立っていた。
優しい切れ長の目をしている。
吸い込まれそうだ。
住職は合掌し一礼すると、声を掛けた。
「皆さん、どうしました? 先ほどからずっとここにいるようですが・・・」
龍介がすかさず答えようとした。
「実は僕たち・・・」
しかし、菜美が直ぐに止めた。
そして、代わりに答え始めた。
ゆっくりと考えながら・・・
「私たちは・・・ アメリカから来たんです。来たと言っても親の仕事の都合で一時帰国です。東京までは一緒だったんですが、親はミーティングがあると言うので私達だけ午前の飛行機で先に札幌に来ました。でも・・・ 親と全然連絡が取れなくなっちゃって・・・」
住職は首を傾げ、優しい眼差しで見ている。
「そうですか・・・ どうりでカラフルなシャツに英語が書いてある。アメリカからですか・・・」
住職には訳有りの少年達だというのは分かっていた。
しかし、問い詰める気はさらさらないようだ。
「どうですか? もうすぐ日が暮れる。今日はうちに泊まっていかれては?」
龍介達は顔を見合わせた。
そして誰ともなく立ち上がった。
住職は微笑みながら頷くと少年達を寺の離れへと案内した。
離れは母屋の裏側にあり、境内からは見えない。
母屋の裏側に回ると、離れとの間に風呂場とトイレがあった。
風呂とトイレが外にあるというのは少年達には信じられなかった。
離れの引き戸を開けるとそこは八畳ほどの土間になっていた。
土間の隅に流し台と大きなガスコンロがあり、そして土間から一段上がると十二畳の畳の部屋が続いていた。
「ここは自由に使ってよろしいです。今日は疲れたでしょう。ゆっくりとお休みなさい」
住職はそう言うと合掌し、一礼して離れから出て行った。
「すごい所だなここ。見ろよ、土のまんまだ」
彰はスニーカーで土間の床を擦っていた。
「それにトイレと風呂が外とはな〜」
広子がチョンチョンと幸太郎のシャツを引っ張った。
「お兄ちゃん、オシッコ」
「ん? トイレならお外だよ。行っといで」
広子は一人でトイレに向かった。が、入るや否や慌ててドアを閉めて出て来た。
「お、お兄ちゃん、大変!
トイレに大きな穴が開いている! ヒロコ落ちちゃうとこだった!」
聞いていた菜美が言った。
「ん? ヒロコ、大きな穴って、ひょっとしてボットントイレ?」
「ボットントイレ? 何だそれ?」
幸太郎が訊くと龍介が答えた。
「ああ、ボットントイレって水洗じゃあないんだ。
汲取り式で下に大きな穴が開いていて、そこにシッコとウンチを溜めておくんだ。
ウンチをするとボットンって音がするからボットントイレっていうのさ」
「なんでお前らそんなに詳しいんだ?」
彰が訊くと今度は菜美が答えた。
「だって、じいちゃんの家に遊びに行くと山の中だから未だに水洗じゃないのよ。
それにこの離れもじいちゃんちの納屋とそんなに変わらない」
皆は、其々の部屋の中を舐め回すように見渡している。
土間の隅にある流し台と大きなガスコンロに目がいった時、誰かのお腹が鳴った。
「グーッ」
「腹減ったな〜」
溜息のように呟いたのは幸太郎だった。
「そうだよな〜 家を出てから何にも食べてないもんな〜」
龍介も同じように言う。
窓からは一筋の紅い夕陽が差し込んでいた。
その時、引き戸が「ガラガラ」と開き、中年の女性が入って来た。
住職の奥さんのようだ。
両手には夕飯の材料を抱えている。
「みんなー、お腹空いたでしょう。御飯にしましょう。
今日は勝手が分からないだろうから私も手伝うけど、明日からは自分達でするのよ」
「明日からって?」
龍介は意味が分からず訊き返した。
すると、
「当分の間いるんでしょう? なんにも気にしなくていいから、居たいだけ居ていいからね」
と言う。
皆顔を見合わせた。
「おばさん・・・」
龍介が声を掛けようとしたが、奥さんは遮るように話を続けた。
「さ、お姉ちゃんたち手伝ってよ」
菜美と梨絵が駆け寄り指示に従う。
「はい、大きいお姉ちゃんはお米砥いでね。
そしてあなたはお湯を沸かして味噌汁の用意をして頂戴。具材はここにあるから」
菜美と梨絵はガス台の下からお釜と鍋を取り出し、準備を始めた。
菜美にとっては初めて見る鉄製の釜だ。
一瞬戸惑ったが直ぐに米を研ぎ始めた。
研ぎ終えると部厚い木で出来た蓋をして火に掛ける。
その横で梨絵は味噌汁を作っていた。
奥さんがふと振り返ると広子が立っている。
「あら、一番小ちゃいお姉ちゃん。そうね〜 そうだ、あなたは食卓の用意をして。お兄ちゃん達もちゃんと手伝ってよ!」
広子は畳の部屋に上がると、壁に立掛けてある丸い食卓を運んできた。
足を引き出し部屋の中央に据える。
龍介、彰、幸太郎の三人も食器棚から茶碗や箸を取り出し食卓の上に並べる。
御飯が炊き上がると菜美は魚を焼き始めた。
「さあ、後はもう大丈夫ね。後片付けもちゃんと出来るね」
そう言うと奥さんは足早に出て行った。
その後姿に、全員が「ありがとうございます」と言い、頭を下げた。
食卓の上には御飯、味噌汁、鮭の塩焼き、たくあん、の夕飯が並んでいる。
皆で食卓の周りに座ると、なぜか自然に正座し、そして合掌した。
「いっただっきまーす!」
声を大にすると、我先にと掻き込むように食べ始めた。
全員が次々と御代わりをする。
あっという間に鉄釜の御飯は空になってしまった。
「フーッ。うまかったなこのサケ」
「たくあんも味噌汁も美味しい」
「なによりも御飯がうまい!」
誰ともなく言葉が出てくる。
一見質素だが、それぞれ一つずつの味が強烈だった。
全員が満足した。と思っていたら、まだ釜の底をおへらで削ぎ取っているのがいる。
広子だった。
釜の底のおこげでおにぎりを作っている。
両手でコネコネして団子のようなおにぎりだ。
頬張ると頬っぺたが思いっきり膨らんだ。
目を丸くして食べている。
やっと飲み込むとニンマリと笑った。
「お兄ちゃん、このおこげ、本当に美味しいよ。香ばしくてお菓子みたいだ」
広子もやっと満足したようだ。
満腹になると全員が仰向けになり天井を見つめていた。
白いガラスの傘に裸電球が灯っている。
柔らかで優しい光を発している。
その光を見つめながら誰かが言った。
「あの和尚さん、俺達のこと分かっているんじゃないか?」
「ああ、そうだよな。でなきゃ居たいだけ居ていい、なんておばさんも言わないよな」
「そうよね。でも、いくら何でも私たちが未来から来ただなんて思ってはいないと思うわ」
「そりゃそうだ。そんなこと言ったって誰も信じねえよ」
「でもよー、これからどうするんだ?」
「どうするって、他に行く所はないんだぞ。
ここで厄介になるしかないだろう?」
「ここでか〜」
誰ともなく、広々としたテレビさえない静かな部屋の中を見渡している。
「私はここが結構気に入っているよ。
じいちゃんちの納屋よりはずっと良いし。
和尚さんもおばさんも良い人みたいだし。
それにキャンプ場のコテージだと思えば気が楽じゃん」
「キャンプか・・・ いつまで続くんだ? このキャンプ・・・」
そう口にした途端、話が途切れた。
長い間沈黙の時間が続く。
誰もが自分達の時代には帰れないと思い始めていた。
その時、幸太郎のシャツをチョンチョンと引っ張る者がいた。
広子だ。
「お兄ちゃん・・・」
「大丈夫だよ。ちゃんと帰れるから」
「うううん・・・ そうじゃなくて・・・オシッコ!」
「はら〜 オシッコか。行っといで」
「やーだ。一人じゃ怖い!」
「ほんとにもう・・・」
幸太郎が起き上がるよりも先に菜美が立ち上がった。
「ヒロコ、お姉ちゃんと一緒に行こう。
お姉ちゃんもトイレに行きたくなっちゃった」
菜美は広子と手をつなぐとトイレに向かった。
外に出てトイレのドアを開け、電気のスイッチを押す。
裸電球が薄っすらと灯り、天井からぶら下がっている蝿とりリボンを映し出す。
無数の蝿が張り付いている。
広子は一瞬戸惑った。
「お姉ちゃん、ちゃんとそこにいてよ」
「大丈夫だよヒロコ。ちゃんとここにいるから」
菜美は広子が用を足している間、空を見上げていた。
満天の空には無数の星が輝いている。
じいちゃんのいる山の家で見る夜空と同じだった。
「綺麗!
札幌も元々はこんなに綺麗な空だったんだ。
星がいっぱい・・・」
菜美がうっとりと空を見上げていると、藻岩山の向こうに一筋の光が走った。
流れ星。
思わず願った。
「帰れますように・・・」
翌朝、東の空が白み始める頃、真っ白な道衣を着て寺の境内で形を演武している者がいた。
形は『雲手(ウンスー)』
龍介の得意形だ。
流れるような足さばき。時折入る気合。
しんと静まり返る境内に息遣いが響く。
「エーイッ!」
気合を込めた一撃に楓の木に群れていたヒヨドリが一斉に飛び立った。
一瞬のざわめきだが直ぐに静けさが周りを覆った。
演武を終え、息を整える。
揺るぎのない空間がそこにあった。
龍介は天を仰ぎ、それから眼下に映る札幌の町をゆっくりと見下ろした。
東の地平線から眩いばかりの太陽が昇ってくる。
龍介の時代では見られない光景だ。
「すげーな。太陽が昇ってくる。いつもはビルやマンションの間からしか見えなかったのに・・・」
龍介は始めて見る光景に見惚れていた。
すると後ろから強い視線を感じた。
振り返るとそこに住職が立っていた。
住職は合掌し一礼する。
「空手ですか? いいですね。凛々しいです」
住職はにっこりと微笑み小首を傾げ、尋ねた。
「他の皆も空手をするのですか?」
「押忍、自分達は皆空手をします」
「ほう、それは頼もしい。いい事です。うんうん・・・」
住職は一人頷きながら寺に戻って行った。
龍介はそびえ立つ藻岩山を見上げた。
朝陽に映える緑が眩しい。
遠くではクマゲラが鳴いている。
響き渡る「カッコウ」という鳴声に耳を澄ませていると、背後から声を掛けられた。
「リュウスケ! 早いな!」
見ると彰だった。
同じく道衣を着ている。
彰はゆっくりと近づきながら言った。
「考えていることは同じか。
もう一本済ませたのか?」
訊かれて龍介は答えた。
「ああ。見ろよ、日の出だ。
スッゲー気持ち良いぞ、ここ」
「ほんとだな。初めてだ、地平線から昇る太陽を見るのは。
いつもは気がついたらマンションの上だもんな」
彰は眩いばかりに輝く朝陽を見ながら大きく深呼吸した。
「スーッ、ハーッ!」
「リュウスケ、もう一本一緒にやらないか?」
「ああ、いいぞ」
二人は寺を背にして並んだ。
形は『珍手(チンテー)』
弧を描き、流れるように手が動く。
音もなく足が付いていく。
二人の息はピッタリだ。
一糸乱れず合っている。
目を閉じると一人の人間が演武しているような錯覚に陥る。
「エーイッ!」
二人の気合は境内を揺るがした。
寝ているものすべてを起こしたようだ。
演武を終えると、龍介の息はあがっていた。
二回続けての演武はさすがにきつい。
やっと息を整えると後ろにずらっと皆が並んでいた。
広子まで道衣を着ている。
「ゴメン。ちょっと寝過ごしちゃった」
幸太郎が頭を掻きながら言う。
「お兄ちゃん、ずるいよ。二人だけで先にするなんて」
梨絵は口をとんがらせる。
「そうよ、ちゃんと皆でやろうよ」
菜美が言うと広子は既に騎馬立ちしていた。
やる気ムンムンである。
「もう一本いくか?」
彰はニヤッと笑いながら龍介を見た。
龍介はただ頷いている。
「よーし、それじゃあ皆いいか〜 平安初段! はじめー!」
一番年少の広子に合わせた基本形だ。
広子はのびのびと演武している。
他の皆もそうだ。
空手をやっている時だけが今までの、そしてこれからの不安感を払拭してくれる。
形の後、一通りの練習を終えると奥さんが声を掛けてきた。
「みんな、そろそろ朝ごはんの用意をしてちょうだい」
手には食材を入れた大きな竹で編んだザルを持っている。
横には、にこやかな顔をした住職が立っていた。
皆、二人の元に集まる。
「へぇ〜 皆空手やっているんだ。いいわね〜」
奥さんが感心するように微笑みながら言うと、その横で住職は只頷いてニコニコしている。
広子は住職に歩み寄り、見上げて言った。
「ねえ、和尚さんも一緒に空手やろうよ。おもしろいよ。
それに護身術にもなるから誰かに襲われた時にも平気だよ」
住職は静かに首を横に振り、答えた。
「いえいえ、私はもう年ですし、ただの坊主です。
空手など・・・ とてもとても・・・」
「そうなの? 絶対に空手を一緒にやった方が良いと思うのに・・・」
残念そうな顔をする広子を見ていた奥さんは、何故か含み笑いをしていた。
しかし、この時は、その笑いの意味が、誰にも分かる訳がなかった。
龍介が住職に訊いた。
「和尚さん、何から何までお世話になり、ありがとうございます。自分達にも何か出来ることはありませんか?」
住職は軽く頷いた。
「そうですね。では境内と墓の掃除をしてもらいましょうか」
龍介は、「押忍!」と言うと、竹箒を取りに離れの横にある物置に向かった。
「あ、俺も行く」「わたしも」と彰と広子が後に続いた。
他の皆は奥さんと一緒に離れに入り、朝食の用意に取りかかった。
住職は一人、寺の裏口に向かった。
そこへ何を思ったのか、竹箒を手にした広子が背後から忍び寄って行った。
どうしても住職に空手をやってもらいたくて試すようだ。
広子はそーっと竹箒を上段に構えた。
次の瞬間、「エイッ!!」と思いっきり振り下ろした。
その時、誰もが自分の目を疑った。
住職の体はスーッと左に動くと、竹箒は虚しく地面を叩いていたのだ。
広子は呆気にとられている。
龍介と彰は顔を見合わせた。
まるで後ろに目があるようだ。
しかし、住職は何事もなかったかのように寺の裏口に消えて行った。
裏口の横にはさりげなく小さな表札がかかっている。
『中井』と書かれていた。
「和尚さん、なんかやっているな?」
「ああ、何かの本に書いてあったけど、代々独自の武術が秘密裏に伝わっている寺があるという・・・ ここもそうなのかな?」
龍介と彰は暫くの間、住職が消えて行った裏口を見続けていた。