それぞれの家
「ただいまー」
龍介と菜美が帰って来ると、台所から「コトコト」と包丁の音が聞こえる。
「お帰り〜 今、ごはんを作っているから、ちょっと待っていて。残業で遅くなっちゃった」
母の真奈美が、額に吹き出る汗を拭いながら夕飯を作っている。
そんな母を見ながら、龍介と菜美は着替えを済ませると、いつものように居間でテレビを見ながらくつろいでいた。
「ねえ、今日の道場はどうだった?」
真奈美が訊いた。
「いつもと変わんないよ」
龍介がぶっきらぼうに答える。
「そうなんだ〜 久美子先生は全然来ないの?」
「うん、顔も見せない。あの二人はもう駄目なんじゃない?」
菜美がジュースを飲みながら言う。
「本当は良い先生なんだけどね〜 どこでどう間違っちゃったんだろうね〜」
真奈美は味噌汁を注ぎながら、呟くように言った。
テレビを見ていた龍介が思い出したように周りを見渡した。
「なあ、そういえば父ちゃんはどうした?」
なぜか心配そうな顔をしている。
真奈美が振り向きもせずに言った。
「隣の部屋で、一人でビールを飲んでいるよ」
去年迄はこんな事は無かった。
父、莞爾はいつも家族と一緒にいた。
ビールを飲みながら、龍介と菜美に自分の少年時代の話をよくしていた。
それも本当に楽しそうに・・・
それが今年になってからだ。
一人で閉じこもるようになったのは。
龍介には壁の向こう側で、莞爾がどういう状態でビールを飲んでいるのか、想像がついていた。
「父ちゃん、大丈夫か?」
龍介は気にして訊いた。
「父ちゃんは大丈夫。ちゃんと会社にも行っているし。仕事が上手くいかなくて落ち込んでいても、一週間あれば立ち直っているから」
真奈美は溜息をつきながら続けた。
「それにしてもどうしてもっと上手くやっていけないかな。相手が上司だろうと役員だろうと平気でズカズカ物言うんだから。あれじゃあ煙たがられるわよね。本当にサラリーマン向きじゃないんだから・・・」
真奈美は半ば諦めているかのようだ。
「でもね、あんた達は何も心配する事はないのよ。
いざとなったら私がパートでガンガン稼ぐから」
そう呟くように言いながら、テーブルに夕飯を並べていると一本の電話があったのを思い出した。
「そう言えばね、今日コウタロウ君のお母さんから電話があったの。コウタロウ君のとこ本当に大変みたい。お父さんが会社に行っていないみたいで・・・」
「会社に行っていないって!?」
龍介と菜美は驚いて訊き返した。
「そうなのよ。会社で不祥事があってね。コウタロウ君のお父さんは関係なかったんだけど、上司の部長さんが会社のお金を使い込んじゃったようなの。それを部下のお父さんに責任を押し付けちゃったみたい。それで左遷させられちゃってね。会社に行っても全く仕事がなくて、朝から晩まで机の前に座っているだけ。そうなったら会社になんか居られないじゃない。休みを取って家に居るみたいよ。最近は精神的にも参っちゃって心療内科に通っているそうよ。それにね・・・」
何故か暗い表情になり、真奈美は口ごもってしまった。
続きが気になる龍介は、真奈美を促した。
「まだ何かあるのか?」
重たそうに口を開き、真奈美は続けた。
「コウタロウ君の住むマンションって一棟丸まる会社で借り上げして社宅にしているでしょ。それがね、ここ一年だけで三人自殺しているのよ。この前も、お母さんが台所で洗い物をしていると、横の窓を黒い人影が落ちて来たって」
「そんなに酷い会社なの?」
振り返った菜美は信じられないという顔をしている。
「そのようね。だからお母さんは心配でパートを辞めて毎日お父さんの傍に居るみたい」
「とんでもねーよな。誰なんだ? その部長とかいう奴」
龍介は憤慨して訊いた。
「えーと・・・ たしか・・・ 加山俊昭って言っていたと思う。
危なく新聞にも載るところだったんだけど、裏で手を回して潰しちゃったそうよ」
「会社って大変なんだなー」
龍介が呟くと真奈美が続けた。
「民間だけじゃないのよ。役所だって大変みたいよ。この前、茶話会でアキラのお母さんと一緒の席だったんだけど、アキラのお父さんもはめられたって」
「はめられた? どういう事だ?」
龍介は訳が分からずに訊き返した。
「ほれ、今度の市長選に出る助役の大野章三っているでしょ。
その人、愛人がいたらしいのよ。選挙に出るのにそんな話はまずいでしょう。
それで別れようと手切れ金を渡したんだけど、女の方は納得がいかなくてアキラのお父さんに相談していたみたい。ところがその女と一緒にいる所を写真に撮られたんだって。その写真をバラまいて、その女とアキラのお父さんが出来ているって噂を流したそうよ。当然市長の耳にも入るよね。怒った市長は公務員にあるまじき行動だ、と言ってアキラのお父さんを地方の出張所に飛ばす、と言っているらしいわ」
龍介は思い出した。
中学校の校門横にある掲示板には選挙用のポスターが貼ってある。
その中の一人に大野章三がいた。
度の強い眼鏡をかけ、その奥の瞳が嫌らしく笑っている。
「大野章三って選挙の掲示板に貼ってあるポスターの奴か?」
龍介が訊くと真奈美は軽く頷いた。
そこへ祖母の智恵が入って来た。
風呂上りか、白髪をまとめ、バスタオルで吹き出る汗を拭っている。
「ああ、いいお湯でした。リュウ君もナミちゃんもお帰り。ちょうど御飯ね。
あら? カンちゃんは? カンちゃんはどうしたの?」
未だに孫達の前でも自分の息子のことはちゃん付けだ。
真奈美は知恵の前では努めて明るく振舞うようにしている。
余計な心配を掛けたくないからだ。
この日もすぐに表情が変わった。
そして、この話はもういい、というように、
「さ、もう御飯にしよう。父ちゃん呼んで来て」
と明るく言った。
龍介は立ち上がると隣の部屋のドアを開けた。
薄暗い。
壊れて音の出ないステレオの横に置いてあるスタンドの豆電球だけが小さく灯っている。
一瞬声を掛けるのをためらった。
二つある机のうち、ベランダの窓に向いている机の前に莞爾は座っていた。
窓を開け放し、ぼんやりと外を眺めている。
眺めている、と言ってもどこかを見ているわけではない。
裏庭の大きな栗の木。雨の上がった夜空。藻岩山の上空に浮かんでいる満月。
その満月の向こう、遠い世界を見ているようだ。
そう、自分が想像する自分だけの世界を・・・