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雨の中で

 

 蒸し暑い日が続いていた、八月初旬の夕方。

風もなくどんよりとした灰色の空からパラパラと小雨が落ち出した。

それは徐々に強くなり、アスファルトを叩き出すと、ついには、激しい夕立となった。

 降りしきる雨の中、交差点の角で一人の少年が信号待ちをしている。

多分、学校帰りだろうか? 肩からスポーツバックを提げ、傘も差さずに立っていた。

全身ずぶ濡れだが、それを気にかける様子もないようだ。

そこへ三人の男が現れた。

三人とも茶髪で、同じようなストライプの入った白いジャージを着ている。

見るからに遊び人風だ。

三人は、少年を取り囲むように立つと、正面の男が傘を差し出し何か言い始めた。

少年は答えることもなく、じっと下を向いている。

ただ、両手の拳だけは、しっかりと握られていた。

正面の男が右手を差し出し、「よこせ」という仕草をした。

かつあげのようだ。

すると、少年はスーッと一歩下がり間合いを空けた。

次の瞬間。

「エーィ!! ヤーッ!!

 気合と共に鋭く蹴り出された右足は正面の男の金的を潰し、両側の男達は横蹴りと正拳突きで倒されていた。

それはアッと言う間だった。

信号が変わると同時に少年は走り去った。

激しい雨の中を何事も無かったかのように、いや何か微笑んでいるようにも見えた。

少年の名は古田龍介。中学二年生。

 

 札幌市中央区。マンション街の一角。狭い路地を抜け、一番奥のマンションの一階に道場はあった。

『武闘空手道竹田会』

看板の文字は汚れでくすみ、隅の方には蜘蛛の巣が張っている。

「押忍!」

 ドアを開け道場に一礼すると、すでに三十人以上の門下生が来ていた。

小学生から中学生まで、全員が道衣に着替えている。

その中に姉の菜美、そして親友の黒岩彰と梨絵の兄妹もいた。

「リュウスケ、遅かったな。ずぶ濡れじゃあねえか。何かあったのか?」

何故かどんよりとした空気が漂う中、奥の方から声がした。

道場主であり、最高師範の竹田正和だった。

相変わらずクマのような身体をソファーに横たえ、タバコを吹かしながら携帯をいじっている。

「押忍、急に雨が降ってきたので・・・ それに補習もあったし・・・」

龍介が答えると、振り向きもせずに言った。

「そうか。始めてくれ」

「押忍」

 龍介は着替えを済ませると、彰と二人で門下生達の前に出た。

二人とも黒帯を締めている。

全員正座をする。

「礼!」

「おねがいしまーす!」

立ち上がると龍介は竹田の方を見た。

携帯から目を離さない。

横にいる彰が龍介に目をやると首を横に振った。

龍介は軽く頷き、正面を向いて構えた。

門下生も構える。

「上段突き! はじめーっ!」

「一、二、三、四・・・」

「次、中段!」

「一、二、三、四・・・」

 龍介は思っていた。

入門した頃はこうではなかったと・・・

道場の門を叩いた時は、竹田の奥さんの久美子先生もいた。

この道場は夫婦二人で始めた道場だった。

最初の頃は門下生の数も少なく、竹田夫婦は親身になって空手を教えていた。

それが門下生の数が増え、道場の経営が軌道に乗ると、竹田の昔からの悪い癖が出た。

門下生の指導を黒帯になった龍介と彰に任せ、自分はギャンブルにのめり込んだのである。

そして事ある毎に言っていた。

「空手をやっていれば何でも出来る。好きな高校にも、大学にも入れる。

俺の言うとおりにしていれば間違いない!」

てな具合だ。

そんな竹田に龍介も彰も辟易(へきえき)としていた。

最近では夫婦仲も良くないらしい。

久美子先生は、もうずっと顔も見せない。

巷では、何でも離婚という噂も出ているようだ。

 基本動作を終えると形の練習に入った。

『燕飛(エンピ)』

彰が演武する。

小学生達は憧れの眼差しで見ている。

確かに上手い。

中学生で彰の右に出る奴はいないだろう。

 その後、基本組手、自由組手と練習は進み、その日は終わった。

最後の挨拶の時も竹田は携帯から目を離さなかった。

龍介と彰が挨拶をしても、「押忍」の一言だけ。

最近では何時もの事だった。

 ドアを開けると雨はまだ降り続いていた。

外は真っ暗になっている。

「止みそうにないな、この雨」

 龍介がポツッと言うと後ろから菜美が傘を差し出した。

「ほれ、一緒に帰ろう」

「いいよ、そんなもん」

「なーにカッコをつけてんのよ。ずぶ濡れじゃあない」

「いーったら、いーんだよっ!」

 手で傘を払おうとしたら、後ろから声がした。

「リュウスケ、姉ちゃんの言う事は聞いとくものだぞ」

 見ると幸太郎だった。

林幸太郎。彼も妹の広子と一緒に傘に入っている。

目が優しく笑っている。

優しさ故か、幸太郎の帯は未だに白い。

「わかったよ。一緒に帰りゃ良いんだろ!」

 ふてくされ気味に振り返ると、彰も妹の梨絵と一緒の傘に入っていた。

彰の目も笑っていた。

 

 帰る途中、菜美はソフトクリームが食べたいと言い出した。

いつものことだ。

近くのコンビニに寄ろうとした時、出入口から見覚えのある男達が出てきた。

白いジャージに三人とも茶髪。

「ヤベッ」

龍介は立ち止まった。

瞬間、男達と目が合った。

「オメー、さっきのクソガキ!」

 金的を蹴られた男が物凄い形相となり、店先に置いてあった売出し用の旗竿を持ち出した。

「ヘッ、ちょっと空手やっているからって粋がるんじゃねえ。

棒を持ったらこっちのもんだ」

 男はニヤッと笑うと旗竿を握り締め、龍介に向かって構えた。

他の二人も旗竿を持ち構えている。

雨は降り続き、風は無い。

「な、何なのこれー。

リュウスケ、いったいどういう事!?

訳の分からない菜美は龍介に訊いた。

「こいつら、俺をかつあげした。悪いのはこいつらだ」

 龍介は落ち着いて言った。

そして、菜美を右手で後ろに下げた。

「姉ちゃん、下がっていろ」

 菜美は下がりながら訊いた。

「リュウスケ、一人で大丈夫? 手伝おうか?

相手、ボッコ(棒)持っているよ!?

「ああ、俺一人で大丈夫だ」

 それを聞いていた男の一人が菜美に近づいて来た。

「おやおや、お姉ちゃんかい。めんこいこと」

 男が目の前に来た瞬間、菜美は傘を持っていた手を離し、スッと右に移動した。

一瞬、男が戸惑っていると、「エーイッ!」という気合とともに菜美の右回し蹴りが男のこめかみにめり込んでいた。

倒れこんだ男の横に菜美の傘が転がっている。

「オメーらやるなー」

正面の男の形相が更に険しくなった。

男は旗竿を握り直した。龍介を狙いすますように。

すると、龍介は半身に構えながら間合いを空けた。

相手が素人ではないことは棒の握り方で直ぐにわかった。

棒術の経験者のようだ。

睨み合ったまま、お互いに動きはない。

数秒の時が流れた。

「ツェーイッ!」

 先に仕掛けたのは相手の方だった。

棒の先端が龍介の喉元に突っ込んでくる。

中段で払うと一歩踏み込んだ。

「エーイッ!」

 龍介の右足刀が相手の喉に刺さっていた。

男は棒を落とし、龍介の右足を両手で掴むと、そのままゆっくりと前のめりに倒れていった。

 残ったのは後一人。

その男は唖然とした目をしている。

菜美が軽く声を掛けた。

「次はあんたよ。どうするの? やる?」

 男は震えながら首を横に振り、旗竿を投げ捨てると、その場を走り去って行った。

雨は未だに降り続いていた。

 


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