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 大学

 

 娘が卒業間近の高校三年生の三月初め、大学の合格発表の日が近づいてきた。

高校受験の時は、さほど気にもしていなかったが、さすがに大学受験は親としてもハラハラドキドキだった。

なんと言っても、娘は第一志望校一本に絞って今までやってきた。

その結果がもうすぐわかる。

家の中全体が、なんだか落ち着かない日が続いていた。

そして、その日がやってきた。

 その日、私はいつもと同じように出社していた。

だが、仕事なんか手につくものではない。

朝からなぜか席に着いたり離れたり、事務所の中をうろうろとしている。

そんな私を見ても、気にする社員は誰もいない。

いつものように各自仕事に追われていた。

 私は時々、時計に目をやった。

合格発表は午前10時。

発表と同時にネットで検索した娘から、私の携帯に留守録があるはずだ。

私はズボンの左ポケットに携帯を忍ばせ、それを左手で握りしめていた。

そして、パソコンを立ち上げ、社内LANを開いて伝達事項を見ていた。

別に仕事をしているわけではない。

早い話、仕事をする振りをして時間を潰していたのだ。

 刻一刻と、その時が迫り出すと、私の心臓は高鳴り出した。

ドックンドックンと大量の血液を送り出している。

そして、時計の針が午前10時を指すと、それはピークを迎えた。

今にも私の心臓は破裂しそうだ。

私は胸に手を当て、なんとか収めようとするが、そう簡単に収まるものではない。

時計を見ると、秒針がチッチッチッと過ぎていく。

「もうすぐ・・・ もうすぐ・・・」

そう思いながら私は時計を見ていた。

携帯を握りしめている左手は、汗でびっしょりだ。

私は一度、ハンカチで手を拭った。

そして、もう一度、時計を見た。

5分過ぎている。

だが、携帯は鳴らない。

「そろそろ連絡があってもいいはずなのに・・・」

 私は携帯を開いて、着信を確認した。

当然のことだが、どこからも着信はなかった。

携帯をズボンのポケットに突っ込むと、また時計を見た。

すでに10時10分を指している。

「10分経っているのに連絡がないということは・・・」

 私は自分なりに結果を想像していた。

私の心臓はすでに普段の鼓動に収まっている。

私は椅子の背もたれに身体を預け両足を投げ出すと、天井を見上げた。

「だめだったか・・・」

そう思い、大きく溜息をついた時だった。

ズボンの左ポケットにある携帯のバイブが鳴った。

着信を見ると、娘からだった。

 私は、おもむろに立ち上がると、休憩室に向かった。

結果は大体想像がついている。

「どうやってなぐさめようか?」

その言葉を考えていた。

そして、休憩室に入ると、誰もいないのを確かめてから、娘からの留守録を聞いた。

それは、本当に興奮しきった震えるような大きな声だった。

うかったーーー!!

私は思わず、耳から携帯を離したほどだ。

それぐらい娘の声は興奮していた。

 私はしばらく携帯を見つめていた。

「よかった・・・ ほんとに・・・ ほんとに、よくやった」

そう思い、携帯を見つめている私の顔が、一人ほころんでいくのが自分でも良く分かった。

そして、この時の娘の声は、その場ですぐに保存したのだった。

 

 娘は大学に入ると、すぐにボート部に入部した。

今までの受験生活のうっぷんを晴らすかのように部活に専念している。

艇庫のある茨戸(ばらと)まで、家から片道20kmはある道のりを、自転車で二往復したこともあるほどだ。

そして、夏になると遠征の日々が続いていた。

そんな中、ある日、家族四人で夕飯を食べている時、娘がボソッと部活の話をし出した。

なんでもボート部に娘と同じ一年生だが、変な奴がいると言う。

その変な奴とは、猿にそっくりだそうで、真夏の炎天下、石狩の海まで行くのに、一人だけ素っ裸に裸足で、海まで走って行ったそうだ。

その変な奴の写真があると言うので見せてもらった。

確かに、つんつくてんの髪をして全身素っ裸。靴も履いていない。

そして、大事な所は小さな黒パンツで申し訳程度に隠しているにすぎなかった。

「こんな格好で走っていたら、そりゃあ猿と言われてもしょうがないな。

それに、こんな輩(やから)は、どんな世界にも一人や二人はいるものだ」

 私はそう思い、笑いながらもう一度写真を見ていた。

すると、なにか引っ掛かるものがあるのだ。

最初、私はそれがなんなのか、よく分からなかった。

だが、写真をよく見ていると、それは彼の笑顔だった。

満面に笑みを湛え、風を切るように走っている。

本当に清々しく良い顔をしていた。

 私は、なぜか彼に惹かれるものを感じながら娘に写真を返した。

すると娘は写真をジーッと見つめている。

それも、なぜか笑顔で・・・

この時、私は親としての直感を感じた。

ひょっとして・・・

 

 夏が過ぎ、秋も終わろうとしている木枯らしが吹きすさぶ日。

娘は部活の打ち上げがあるというので、ススキノに行っていた。

今日の飲み会は一年生が主体で、他の部活からも一年生の有志が集まると言う。

これは、例の猿と呼ばれていたボート部の彼から聞いた話だ。

 娘が飲み会のある居酒屋に着くと、すでに大広間には30名ほどの学生が来ていたそうだ。

そして時間になると早速宴会が始まった。

居るのは若い学生達だ。当然のように端(はな)から浴びるように酒を飲んでいる。

話に盛り上がり、一気飲みも始まった。

皆泥酔状態だ。

そんな中、一人の学生が娘に言い寄って来たそうだ。

その学生はアメリカンフットボール部で、身体も大きく、首から肩にかけての筋肉は、まるでプロレスラーのように盛り上がっていた。

酔った勢いで、嫌がる娘をものともせず擦り寄ってくる。

娘は席を離れようと立ち上がったが、逆に今度は抱きつかれてしまった。

さすがにこれには、周りに居た学生達が止めに入った。

だが、かなう相手ではない。

なんと言っても相手はアメフト部の学生だ。

次々と簡単に弾き飛ばされている。

とうとう業を煮やした例のボート部の猿が立ち上がった。

アメフトの学生と娘との間に割って入ると、お互いに胸倉を掴み、乱闘状態になってしまった。

ビール瓶やコップがテーブルから飛び散り、食べ残しの料理が皿ごと畳の上に散らかっている。

なんとか必死になって娘を守ろうとしていたようだが、この猿も最後には投げ飛ばされてしまう。

したたか壁に背中を打ちつけると、そのまま腰からへたりこんでしまった。

とうとう邪魔する相手が居なくなったアメフトの学生は、口を尖らせ、チュウの仕草で顔を娘に寄せてきたそうだ。

その時、猿の目には、到底信じられないような光景が、まるで映像のスローモーションのように映ってきたらしい。

娘の顔から、一瞬、スーッと血の気が引いたように感じると、相手の目を見据え、ついに伝家の宝刀を抜いたようだ。

そう、あの必殺の上段右回し蹴りだ。

もっとも、娘にしてみると、考える前に身体が勝手に反応したらしい。

気がついたら、アメフトの学生は綺麗に隣の部屋まで飛んで行ったようだ。

そして大の字になり、そのまま気を失ってしまったらしい。

この時まで、娘が空手の有段者だということは、当然誰も知らない。

もちろん例の猿もだ。

皆、唖然とした顔をして見ていたようだ。

それも、水を打ったように静まり返って。

 この時の居酒屋での事件が縁になったのかどうかは、正直私にも分からない。

だが、この時以来、例の猿と娘とは、どうやら付き合い始めたようだ。

それも、友達以上の仲らしい。

 ところで猿の本名だが、娘に訊くと、『東原宗太』という。

もっとも、この時まで、我家では当然の如く、彼のことを「サル」と呼んで通っていたのだが、娘はなぜか「サル」ではなく、「宗ちゃん」と親しみを込めて呼ぶようになっていた。

 

 娘が大学の二年生になってからだろうか、例の猿、いや、宗太は学校帰り、娘を時々バイクで送ってくるようになった。

そして、夏のある日のことだった。

その日は、北海道にしては珍しいくらいに蒸し暑い日だった。

私は残業で遅くなり、吹き出る汗を拭いながら、家の玄関を開けた時だった。

何足かある靴の中に、一際でかいスニーカーがあったのだ。

そのスニーカーは周りの靴を押しのけるように、玄関のど真ん中に鎮座していた。

それこそ、私が靴を脱ぐ場所がないほどだ。

仕方がないので、私は客人のように玄関の隅に靴を脱ぎ、家に上がった。

「例の猿、いや、宗太が来ているのか」

 この時は単純にそう思い、夜も遅いし明日も早いので、シャワーを浴びてそのまま寝てしまった。

 そして翌日、私は子供達がまだ寝ている間、朝早くに会社に行こうと玄関に降りた時だった。

例の一際でかいスニーカーが、昨日とまったく同じ状態で玄関のど真ん中に鎮座しているのだ。

一寸たりとも動いた形跡はない。

これを見た時には、さすがに頭に血が昇ってきた。

みるみる顔が赤くなり、腹の底からアドレナリンが湧き出してくる。

「あのやろう、一晩泊まったのか!?

 そのスニーカーを見ながら、わなわなとしてくる私を見て、横にいる妻はなぜか微笑みながら言った。

「本当に大きい靴ね〜

昨日からずーっとこのまま」

 そして私を意味ありげな目で見つめながら続けた。

「あなたの若い時はどうだったの?

たいして変わらないでしょ?」

 私は何も言えないでいた。

確かに言われりゃそうだ。

猿、いや宗太も私もやっていることはたいして変わらない。

いつの時代も男と女は変わらないか・・・?

 変に自分を慰め、この日は素直に会社に行った私だった。

ただ、この頃からだろうか、娘と宗太の将来的なことを、チラチラと考えるようになってきたのは。

 後日談だが、この日、私が会社に行った後、娘が起きてきたので妻が娘の部屋に行くと、宗太が部屋の隅で小さくなって正座をしていたという。

「どうしたの?」と、妻が近づくと、宗太は下を向きながら、か細い声で言ったそうだ。

「ボ、ボクはおじさんに殴られたほうが良いんでしょうか?」

 妻は何も言えなかったそうだ。

ただ、宗太の性格が可愛くて・・・

それだけだったようだ。

 

 娘と宗太が四年生になる頃には、お互いの家同士認め合う仲になっていた。

宗太はしょっちゅう我家に泊まりに来るし、娘も宗太の実家に行っているようだ。

そして、卒業式の日を迎えた。

 この日は、私は朝から大忙しだった。

忙しいと言っても、早い話、運転手役だ。

 朝起きると、朝食もそこそこに娘を予約してある美容室へ送り届けた。

そこで娘は髪を結い、着付けを済ませると、そのまま大学の卒業式場へ送って行く。

そして私は一度家に戻り、着替えを済ませると、今度は妻と二人でタクシーに乗り式場へ向かう。

つつがなく卒業式が終わると、打ち上げがあると言う娘を残して、私は妻と二人で一度家に帰って来た。

普段着に着替え、一息ついていると、娘から打ち上げが終わったというメールが入る。

私と妻は車に乗り、娘を迎えに行った。

そして、大学で娘を乗せると、葵羽写真館に向かったのだった。

 葵羽写真館とは、親の代からお世話になっている写真館だった。

それこそ、私が生まれた時から今まで、人生の節目節目には必ずここで写真を撮ってもらっていた。

当然この日も予約してあった。

 

 葵羽写真館に着くと、いつもの館長が、袴姿の娘を見て、

「大きくなったね〜」

と、目を細め、微笑みながら迎えてくれた。

 私達親子は受付を済ませると、二階に上がり、いつものスタジオに入った。

早速、館長はスクリーンを降ろし、撮影の準備をしている。

 私は、持ってきたデジカメで、その間、袴姿の娘を撮っていた。

「本当に大きくなったものだ。気がつくと、もう大学卒業だ」

 デジカメのファインダーに映っている娘を見て、私は思っていた。

私達夫婦にとっては、本当に自慢の娘だった。

 一通り、娘の撮影が終わると、館長はなぜかニヤッと笑いながら私の方を見た。

そしてこう言った。

「お父さんもお嬢さんと一緒に写真撮りませんか?」

「エッ?」と思ったね。

 この日は娘の写真だけと思っていたので、私は普段着のまま。それこそジーパンにセーター姿だ。

私が自分の姿を見て戸惑っていると、館長は笑いながら続けた。

「その格好が良いんですよ。普段着のままが・・・

それに今度お嬢さんと一緒に写真に収まる時は、それこそ結婚式の時ですよ!

結婚式の写真というのは、なぜか花嫁の父は皆悲しい顔をしているんです。

この一枚はサービスしますから。さ、どうぞ!」

 私は横にいる妻にも促され、娘の横に座った。

そして撮ってもらった娘と二人だけの写真。

そこには、成長した娘と、嬉しさ一杯の自分の顔があった。

 

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