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 中学校

 

 キャンプの面白みを知った私達家族は、それから年に二〜三回、毎年キャンプに行くようになった。

そして、娘の言った一言が刺激になり、キャンプ道具も毎年少しずつだが、買い揃えていった。

ランタン、ツーバーナー、ウイングタープ、組み立て式のテーブルやイス。妻が使いやすいようにとキャンプ用の鍋や食器、そしてブランド品の大型テントまで新調した。

娘が小学校を卒業する頃には、ほとんどのものが揃っていた。

だが、どうしても手に入らない、いや我家の家計では到底買えないものがあった。

それはカヌーだった。

 キャンプに行くたびに目にするカヌー。

それは湖面や川面をゆったりと流れ、車や徒歩では行けない所までも連れて行ってくれる。

そのカヌーから目にする景色は水鳥と同じ目線。まったく次元の違うものだ。

カヌーに乗らなければ手に入れることのできない時間と空間。

私はどうやってもカヌーが欲しかった。

だが、当時のカヌーはFRPの安いものでも25万〜30万円はする。

ウッドのカヌーだと35万〜60万円もする高値の花だった。

当然、買えるわけがなかった。

 

 娘が中学校に入った五月のある日。

私達家族は知人の家に食事に呼ばれて行っていた。

楽しい一時を過ごしている時に、知人が、

「カヌーを造らないか?」

とおもむろに言い出した。

漠然と言われてもどういうことなのか、私にはまったく分からない。

よくよく訊き返すと、「カヌーのマニュアルがあるので、自分で造ってみないか?」ということだ。

費用も材料費の10万円位でできると言う。

私は色めきだった。念願のカヌーを手に入れることができる。

私は二つ返事で、「造る」と言い、早速そのマニュアルとやらを見せてもらった。

だが、知人が本棚から出してきたマニュアルを見た時、正直言って、「ガーン!!」と頭をぶん殴られた気分だった。

なんとそのマニュアルは、すべて英語の原書だったからだ。

 私はその本のページを捲った。

中学生程度の英語力しかない私には何が書いてあるのかよく分からない。

だが、「造る」と言った以上引くに引けない。

私はあたかも英語が読めるという顔をして本を読んでいた。

いや、読むという表現は適切ではない。

読むというより、ページを捲りながら作業工程の写真や設計図を見ていたのだ。

すると、それは、私が子供の頃、趣味で作っていた模型飛行機の胴体部分の作り方とほとんど同じだということが分かった。

「これなら俺にもできる。船も飛行機も流体力学的には同じだろう」

そんな勝手なことを自分自身に言い聞かせ、私はその場で知人にカヌーの材料の発注をお願いしたのだった。

 

 カヌーの材料が家に届くと、早速カヌー造りが始まった。

当然、英語の辞書を片手にでの作業だ。

専門用語が多くて分からない部分は、友人、知人、果てはカヌー工房や造船会社にまで電話して訊きまくった。

 私はカヌー造りに没頭した。

まるで失っていたものを取り戻すかのように休みの日は朝から晩まで、食事もほとんど取らずに裏庭で作業をしていた。

ストリップボードという細い木材を一本ずつ根気よく貼っていくと、徐々にカヌーの姿が現れてくる。

見るたびにワクワクしてくる。

仕事の最中も頭の中はカヌーのことで一杯だ。

クロス貼りや樹脂加工、艤装品の取り付けなど、子供達や妻も面白がって手伝っている。

家族総出の作業だった。

そしてこの年の秋、手造りのカヌーは出来上がった。

それは、やわらかい曲線で構成され、浮き出る木目が美しい真のウッドカヌーだった。

 

 次の休みの日、私達家族は早速カヌーの進水式に出かけた。

目指すは、いつもキャンプをしている支笏湖の美笛野営場。

湖畔に着くと、すでに数艇のカヌーが爽やかに広がる青空の下、湖上に浮かんでいる。

皆のんびりと楽しんでいるようだ。

 私は早速カヌーを降ろすと、皆で波打ち際まで運んでいった。

そして、用意してきたシャンパンを取り出すと、勢い良く詮を抜いた。

あふれ出るシャンパンをカヌーのステム(舳先)に振り掛ける。

ちょっと大げさだが、航海の無事を祈っての儀式だ。

なぜか皆の顔がほころんでいる。

やっと手に入れたカヌーだ。

嬉しさもひとしおだった。

 私は残ったシャンパンを口に含み、一気に飲み干すと、ライフジャケットを着けた。

そして全員に手渡す。

パドルを持ち、「さあ、乗ろう」とすると、娘がライフジャケットを着けながらボソリと一言言った。

「お父やん、先に一人で乗ってみて」

「エッ?」と思ったね。この一言も強烈だった。

どうやら私が造ったカヌーが信じられないようだ。

振り返ると、妻も息子も頷いている。

「みんなで造ったはずなのに・・・?」

そう思ったが、とにかく私はカヌーに乗りたかった。

 一人でカヌーに乗り込むと、妻に後ろを押してもらい湖岸を離れた。

スーッと音もなく前に進んでいく。

試しにパドルを湖面に入れてみた。

カヌーは簡単に向きを変える。

意のまま、自由自在だ。

一人で楽しんでいると、湖岸から声がした。

「お父やん! 戻ってきて! 私も乗りたい!」

娘の声だった。

やっぱり乗りたいようだ。

 私はすぐに戻ると家族全員を乗せ、また湖に出た。

ちょっと漕ぎ出ると、湖面をそよぐ風が頬に優しく吹きつける。

湖水はどこまでも透き通り、カヌーのすぐ横を手のひらほどのアメマスが、群れを成して通り過ぎていく。

見下ろす湖底には、眠るように横たわる流木が、まるで生きているかのように絡み合い、その間を大型のニジマスがゆったりと泳いでいる。

見上げると、真っ青な青空に白い一筋の飛行機雲が伸びている。

その先端は広い大空を一気に横切るかのようだ。

 私は漕ぎ進んだ。

キャンプサイトを離れ、しばらく行くと、人の喧騒は聞こえなくなった。

先ほどまで周りに居たカヌーも見えない。

しんと静まり返った中、聞こえてくるのはカヌーが掻き分けるサラサラとした水の音と、湖岸に迫る鬱蒼とした森から聞こえる鳥のさえずりだけだ。

この空間の中に、私達家族だけがいる。

なんと贅沢なことか。

妻も子供達も森を見つめ、何も言わずに聞き入っている。

 私は思った。

「やっと手に入れた。

今まで失っていたものを・・・ それまで以上の時間をかけて・・・

そう、今は、やっと家族一緒だ!」

 カヌーに乗り、一番後ろでパドルを漕いでいる私に向かって、振り向いた娘の笑顔が、今でも私の脳裏に焼きついている。

それは、本当に満面の笑顔だった。

 

 そう言えば、この年の夏だったと思う。

息子が習っている空手の先生が家(うち)に来たことがあった。

実は弟の龍介は小学校の三年生から、家の近くの道場で空手を始め、この時にはかなりの腕前になっていた。

道場の先生とも仲良くなり、時々一緒に帰ってくることがあったのだ。

この日は、ちょうど私も休みで、裏庭でカヌーを造っていた。

そんな私を見かけた先生は、裏庭にやってくると、

「へ〜、これが噂のカヌーか・・・

お父やん、これ本当に浮かぶのか?」

などと、まるで信じられないという顔をしている。

おまけに拳を固めると、

「こんなの俺の一突きで穴ボコボコだな!」

と笑っているありさまだ。

そんな時、後ろのサクランボの木で、ガサゴソと音がした。

振り返ると、一番上の枝がユラユラと揺れている。

先生は、「なんだ?」と思いながら見上げていると、娘が木のてっぺんまで登りサクランボを採っていた。

まるで猿のように枝から枝へと渡っている。

「オッオーーー!!

そこにいるのは姉ちゃんか!?

 先生は目を皿のように丸くして驚いていた。

だが、それだけではない。

しばらくすると、なぜかニヤニヤと笑っている。

そして何を言うかと思いきや、

「姉ちゃん、良い身体してるなあ。

身体もやわいし、運動神経も良い。

なあ、龍介と一緒に姉ちゃんも空手やらないか?

空手をやるために生まれてきたような身体だ!」

 どうやら誘っているようだ。

確かに娘は幼い頃から活発で、男勝りのところがあった。

だが、「女だてらに空手はな〜?」と私も妻も思っていた。

それが、空手は護身術にもなると言うし、先生の強い勧めあり、結局弟と一緒に道場に通うことになったのである。

 

 それからの我家は、空手漬けの日々が続いた。

娘が道場に通うようになってからは、父母会の会長を任せられ、事務仕事から経理まで。まるで妻は道場に就職したようなものだった。

 試合があると、当然一家総出で応援に行く。

これは正直言って燃えたね。

試合に出る子供達が燃えるのは当然だが、それ以上に応援している親の方がはるかに気合が入っている。

特に娘の試合の時には、必殺の上段右回し蹴りが決まるたびに周りからどよめきが起きていた。

この回し蹴りは相手にはまったく見えないようだ。

気がつくと相手のこめかみに、ものの見事にヒットしていた。

そしてあまりの応援の激しさは、審判団から、「もっと下がって応援してください。白線から中には絶対に入り込まないように!!」とお叱りを受けるほどだった。

 そんな空手漬けの日々は、高校に入り、大学受験の準備をする時まで続いていた。

そして将来、護身術としてこの必殺の回し蹴りが役に立つ時がくるとは、この時はまったく考えてもいなかった。

 


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